"ネットの多様性"の限界

ダウンロード違法化、ケータイ小説批評、ブログ限界説――この3つに関するネットの言論はどれも、今のネットの限界を表す現象という点で私の中でつながっている。

パブリックコメントの多さにかかわらずダウンロード違法化の流れにいっているけど、まー当然だろうと思う。意見の多くはこんな感じだ。コンテンツアクセスの多様化は文化的・経済的に見て保護されてしかるべきであり、ダウンロード違法化はいたずらにその可能性を狭めるおそれがある云々。不正ダウンロードによる損失は明らかでなく云々。しかし、少なくとも今のところアクセス多様化によるコンテンツ流通活性化の効果はずっと小さく、レコード業界などが考えを改めるには至らない。説得の材料とするにはあまりに弱い。擁護派がヒステリックになっている様は、中二っぽい。
私は2つの症例を見て取る。

  1. 今のネットには多様性に対する無批判な信奉がある
  2. 今のネットは外の者に届く言葉を発する機構を持たない

この二つはよく考えると矛盾している。真に多様性が維持されていれば、意見のぶつかり合いで総意は鍛え上げられ綜合的な意見ができるはずである。しかし2のような現象が起きているのは、ネットが多様性をうまく取り扱えていないからか、ネットが異なる意見を取り入れ止揚する機構を持たないからか、のどちらかだろう。私はその両方が起きていると思う。

前者の一例としてケータイ小説の面白さに関わるエントリーを私は思い浮かべる。ケータイ小説についていくつかエントリーがあったが、批評と呼ぶに値するものをあまり見かけることはなかった。いや探せばあるのだろうけど。少なくとも、ケータイ小説についての心構えを説くメタなエントリーの方がアテンションを集めていた。kaienさんのエントリー「ケータイ小説を笑うまえに」は優等生的なエントリーである。しかしそこにケータイ小説がなぜ面白いかは書かれていない。当然ながらケータイ小説の面白さは、「れ」の詩の面白さとも「カラ兄」の面白さとも「らくえん」の面白さとも違う。もちろんこのエントリーはケータイ小説の面白さを説明するためのものではない。しかし、だからといって他の作品を持ち出す必要はない。私も「らくえん」は大好きだけど、こんなところに引き合いに出されてもいやーな気分になるだけだ。

ある作品についていくつかの評価尺度を秤にかけることはそれほど難しくない。その中である立場をとり一貫性と熱意を持って作品について語ることで、作品を知らない人に何かを伝えることができる。それが批評だ。ネットには作品を評価するページはいくつもある。しかし、批評性を持つページとなるとずっと少なくなる。東浩紀が「ゼロ年代の想像力」に対し、ある立場を貫いて書かれていないのでグダグダになっている、と評していたが、同じことを言っているのだと思う。

ただ、批評性という言葉を使うと何だかわからなくなる。意見が異なる人が耳を傾かせるに足る言葉を発すること、と言うといいのかな。そのためには、何かを選び取らないといけない。その結果としての多様性ならばいいんだと思う。しかし、今のネットは、「多様であること」そのものを選んでいる。今はどうよくなるかちゃんとわからないけど、多様であればいいことも起こるだろう、てな感じだ。多様性では飯は食えない。「ブログ限界論」に対する反論のしょぼさも、ダウンロード違法化に対するパブリックコメントのしょぼさもまさにそれだ。

批評性のない多様性は、人を蛸壺に引きこもらせる。今のネットの多様性は、すいかを食べるのに塩をかけているようなものだと思う。反対の味をアクセントにすることで、本来の味をひきたたせる。でもそれでは、本当の甘みを追求することにはならない。ちょっとの甘みでもすごく甘く感じてばかりだと結果味オンチになってしまう。「多様性は人生のスパイスである」と誰が言ったか知らないけど、今のネットはさまざまなスパイスを混ぜ合わせ玄妙な味を作り出すインドカレーではなく、福神漬けとらっきょがついたククレカレーだと思う。

私が見る限り2007年のブログの言論はグダグダだった。「ブログ限界論」と言いながらまともな議論も出ず、レコード業者にも負けた。多様性だけを担保していればいい時代は終わりつつあるのではないか。多様性に対する無批判な信奉はそろそろ改めないといけないのではないか。これまで多様性の必要性ばかり煽られてきたが、多様性があると何が起こるのかちゃんと語られてはこなかった。批評性――自分と異なる者に耳を傾けさせる技術と意思がなければ、多様性は突然変異を生まない。批評性がなければ、梅田さんの言う「褒めること」も単なる馴れ合いになってしまう。

これから何度もダウンロード違法化みたいなことが起こるだろうけど、2008年にはその中から多様性を上手くまわしていくロールモデルが出てくるといいなぁ、なんて思うのでした。