行為とストーリー

arclamp.jpはだいぶ前からアンテナに入れていたのだけど、http://www.arclamp.jp/blog/archives/phenomenal_architecture.htmlhttp://www.arclamp.jp/blog/archives/team_lab.htmlは個人的にかなりヒットしたエントリー。後者で紹介しているWeb2.0 EXPOでのチームラボの猪子さんの講演も面白い。アンビエンスをどう作るかが参加のアーキテクチャにおける一つの大きな課題であるのは確か。でもそれだけじゃダメなんじゃないかと


マリオもそう。誰もピーチ姫救うことなんて考えてプレイしてない。マリオが動くことが楽しい。
を読んで思った。
もし、マリオを動かすことだけのゲームがあってそんなの誰がプレイするだろうか。ピーチ姫もクッパもなく、1ステージが延々続くゲームは面白いんだろうか。やっぱり、プレイ中の行為の楽しさとそれを支えるストーリーの両方が必要なんだろう、ということになる。それじゃ、この2つはどういう関係にあるんだろう。
ゲームのプレイは、ポールにジャンプしたりピーチ姫を助けるという成果によって完結する。成果によって自分のプレイに満足感を得る。そうして、プレイヤーは改めてゲームをクリアするため次のステージに進む。この、行為とストーリーの間を行き来するところにデザインのキモがあるんじゃなかろうか。偶有性の高い状態からストーリーの力学で拘束された状態に移行したとき、人は自らの行為を振り返って意味づけを行う。この時の意味の相転移が重要なんじゃないかなと。

自由度の高いゲームパートとストーリー進行パートとを行き来させることはゲームでも重要でしょうね。例えば、アルファシステムの、「ガンパレード・マーチ」と「絢爛舞踏祭」との違い。自由度が高すぎてストーリーにコミットできない「絢爛舞踏祭」と比べ、「ガンパレ」では戦時中の日本を思わせる舞台設定とあざといキャラ設定という拘束があるからこそ、プレイヤーは自分の行為を意味づけできる。

(補足)>umi_urimasuさん
コメントどうもありがとうございます。

以下はゲームのことに限定して書きます。まずは「ゲーム性」という言葉を定義しておきます。ゲーム性とは - はてなキーワードを見てもわかるようにコンセンサスのとれた定義はありませんから。以下では、ゲーム画面内でプレイヤーを動かす行為そのもので生まれる意味とか面白さを『ゲーム性』と呼ぶことにします。

>それでも面白いゲームは面白いでしょう。勝ち負けの定義さえ与えれば棒と丸だけのブロック崩しだってゲームになりうるし、
については、上のエントリーを書きながらも思っていたことでした。ストーリーが設定されているRPGであっても、純粋にレベル上げに楽しみを見出すこともある。ただ、『ゲーム性』だけでゲームが成り立つかどうかは個人差が多分にあると思います。

じゃあ、ゲームを買った多くの人がゲームを楽しめるようにするためにどうやってゲームをわかりやすくするか。もちろん、全てのゲームの面白さを説明できる系統だった方法論なんて確立できないけど、ツールや評価尺度はいくつかあげられるでしょう。上に書いたのはそのための仮説です。umi_urimasu さんは、「ゲーム的な行為の意味づけはいくらでもできそうに思えます」と書きましたが、その「いくらでも」とは何なのか、を問うています。もちろん、これは仮説にすぎないですし、全くの的外れかもしれません。

上に書いたのは、『ゲーム性』とストーリーのバランスをどうとるかを判断する材料の一つです。『ゲーム性』を実感できる一連の行為に対し、それがストーリー上でどういう意味があるのかをその都度対応して示すことで、その行為に『ゲーム性』自体から得られる面白さに加えてストーリー上での意義を与えることができる。それを守ることを前提とすれば、どこでステージを切るか、ステージの後にどのようなイベントを設定しないといけないか、尺度を設定できるだろう、(そして、それはデザインにおいてアンビエンスとストーリーのバランスについての指針になるかもしれない)、ということです。
umi_urimasuさんは、「もちろん設定やシナリオといった演出部分は楽しみに大きく寄与する要素だと思いますが、それらはゲームのみに固有のものじゃなくて映画や小説にもあるようなものだと思います」と書きましたが、ならば演出パートとゲームパートとをどのぐらいの割合で配分しそれぞれをどのように切り替えればいいのか、という問いに対する考察の第1歩(言うまでもなく考え方の取っ掛かりにすぎなくてこれで全てを説明できるわけではない)を記したものです。
逆に小説について言うなら、ある程度有名な小説作法は大体読んでいますが、偶有性を持たせて状況を描いた情景描写と、プロットに基づいてストーリーを展開する部分とを、どのように切り替える、それぞれをどのように配置するか、という問題は、個別にケーススタディはあげられることはあるものの、一般的な方法論はないように思います。そこは書き手のセンスみたいな説明で済ませられている。もし明確に方針になりうるようなものを示唆している本があれば是非教えて欲しいぐらいですが。



GPMについての評価は、確かに仰るように一般的な見解ではなく、私の個人的な解釈にすぎません。自由度の高さがGPMの売りということになっています。なら、AIもより高度になっている「絢爛舞踏祭」はずっと面白くなっているはず。ゲームに対する評価は人によってまちまちでしょうが、少なくともGPMの方が後世に大きな影響を残しているように見えます。それは何故なのでしょう。宇宙船の中ということで自由度が限定されているからなのか、Wikipediaでの説明にあるように「戦闘においては自機の位置を正しいグラフ数値に合わせるだけという全く臨場感のない単調な作業を繰り返すゲームであったため」なのか――。

偶有性とは、脳科学者の茂木健一郎さんが提唱している概念で、モバイル社会シンポジウム2006 - キーノートスピーチ - END_OF_SCANにも書いています。引用すると

偶有性 :半分予測可能、半分予測不可能な形で起きる事象
二面性がある
いいことが起きたときにそれを促進する=報酬系
悪いことが起きたときにそれに対応する=リスクマネージメント
双方を持つことが必要

というものす。重要なのは半分予測可能、という部分です。予測に従って(あるいは逆らって)行動したとき、いいことがあると報酬が手に入り、悪いことがあるとリスクとなる。自由に行動できること自体には価値はさほどなくて、不確定な中でどれだけ予測ができるか、自分の行動をシミュレートしたとき報酬とリスクを見積もれるか、そしてどれだけその通りに報酬やリスクが発生するかが、行動を促すのに重要なのでしょう。

絢爛舞踏祭」は純粋にゲームとして偶有性を実現しようとしています。報酬やリスクは、ゲームの中のNPCのレスポンスとしてのみ得られる。ただ、少なくとも私にとっては、キャラにもコミットできず目的も漠然としている中で、キャラを思い通りに操るという報酬だけではゲームを続行できなかった。
GPMでは、"お仕着せのシナリオや背景設定"が、自分の行為にドラマ性を付加するのを助ける役割を果たしていると思います。キャラも状況設定もとても記号化しているからこそ、自分の行為の意味づけがとてもやりやすい。それによって、自分の行動によっていいことが起きたときの満足感をより高く感じるし、悪いことが起きたときのダメージも大きく感じる。極限下だからこそ戦闘に勝利することの意義を強く感じるし、原さんのキャラだからこそ刺されても楽しい(そっちかよw)。同じことを「絢爛舞踏祭」の舞台でやられても腹が立つだけだと思いますw また、背景設定を受け入れない行動を取る場合にも、背景設定に対抗するだけの動機付けを自分で仕立て上げることになる。
背景設定による意味づけは、芝村さんが目指したゲーム性とは違う部分からくる面白さでしょう。でも、人は何もないところから意味を作っていくよりも、前提となるコンテクストの上で理解する方がコミットしやすいのです。「評価軸のとりかた」を設定しやすいからこそ広い層に訴求できているのだと思うし、それを妄想方向に共有しやすかったからこそ同人があれだけ出ているのでしょう。繰り返しますが、それができたのは極限化したシナリオやキャラや舞台設定のおかげであり、単なる書き割り以上の役割を果たしていると私は考えています。