テレビについて考えててもつまらない

これまでずっと、テレビとネットをつなぐにはどうすればいいかを考えていた。できたときのRimoのように確信犯的に著作権を侵害するサービスに対し、そのやり方ではコンテンツ制作者の理解は決して得られないと繰り返しコメントしてきた。単純に金銭で解決するのではなく、テレビとネットが互いに相手の価値を理解し大きなエコシステムを回すような世界になればいいのにと思っていた。
しかし、ここ最近は、相互理解はありえない、と思っている。そもそも、テレビやセルなどのコンテンツについて興味がなくなっている。定型化した創作作法によって突き抜けた作品が作られる可能性は低い。昔よりずっと低くなっている。ウェルメイドな作品は何となく楽しめるけど、そのことを誰かと体験を共有したいとは思わない。今は、創作と表現の間のようなもの、ジャズで言うとインプロビゼーションの方が楽しい。

まず、第7回テレビとネットの近未来カンファレンスで出た話題を引用しながら、テレビとネットの間の溝についてあげてみる。

権利と報酬のずれ

最後のパネルディスカッションで、ニコニコのようなCGMベースでのコンテンツ流通について、MIAUの津田氏が次のように言っていた。「ニコニコなどへの公開を嫌がるのは権利者より事務所ではないか。MIAUの記者会見をニコニコに流したら、金髪やめろなどのコメントがあってへこんだ。ネットでネガティブコメントがつくのは十二分に承知しているけど、こんなささいな事でもすごくへこむ。ニコニコは面白いし可能性があるけど、無名の悪意とどう折り合いをつけるかが問題」。

ネットの声は、ネットではネガティブコメントが付くなんて日常的でありそこに傷つく方が悪いという。でも、それをスルーできないところまで自己を表現するのが創作でありコンテンツ制作である。10のポジティブなコメントで得られる喜びより1のネガティブなコメントで受けるダメージの方が100倍大きい。

http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1047553.htmlとそののコメントを見てもわかるように、制作者と消費者の価値観には大きくずれがある。今までその溝をテレビ局が埋めていたけど、ネットによって溝が可視化された。この溝は埋まることはなく、ますます深くなるだろう。

コンテンツに対する権利と報酬をどうマネージするかは、ネットでのコンテンツ流通において一番重要な問題だけど、価値観のずれをビジネスモデルに組み込めない限り先にすすまない。ネットの声がいくらニコニコの素晴らしさを語り、エスタブリッシュ層を恫喝しても、彼らにその声は届かない。

番組構成という縛り

KNNの神田さんが、「Joostは最近飽きてきた。まずアメリカの番組だからつまらない。あとテレビと同様にチャンネルがロックされている。面白い番組に勝手にザッピングしてくれた方がいい」ということを言っていた。まったく同感だ。少なくとも私は、いくらテレビをながら見するとしても、テレビと同じ構成の番組をPCの中で見ても苦痛なだけだ。

主催のメタキャストは当初、HDRに録画したテレビ番組をメタデータによって高価値化する、というのをミッションにしていた。しかし現在は、ネット上のビデオのダウンロードログをメタデータとし、それを用いてネットビデオの高価値化を図っている。
テレビ番組を直接、メタデータによってネットにおいて高価値化するというのは、あまり筋がよくないのではないか。メタキャストの"転向"はこの難しさを如実に表していると思う。テレビ番組のメタデータはどうしても放映時間やジャンルや番組全体の構成に引きずられる。少なくともメタキャストのTBFファイルはユーザのアテンションをぴったりとは扱えない。

コンテンツは王様か?

どうも、映像配信サービスはコンテンツありきで考えがちだ。コンテンツを提供すれば何かが起きるだろうという感じ。
ネットではコンテンツは王様ではない。みんなが言うように、場が王様だろう。ウィンドウ戦略というのは露出の場所をコンテンツホルダーが完全にコントロールする場合に成り立つ話だ。今は、ウィンドウがどこにあるかは、場に左右される。ウィンドウありきで作られたコンテンツがネットの放縦さに耐えられないのはもうみんなが分かっていることだと思う。
コンテンツがあれば場が生成されるわけではない。例えばコンテンツへのコメントを共有するサービス。メタキャストもMitterというサービスを始めた。しかし、コンテンツが面白くさえあればコメントががんがんつくのだろうか。なぜ体験を共有したいか、なぜ表現しようと思うか、その力学がテレビの受動的な視聴とネットの能動的な受容とで根本的に違う。


あと、ちょっと続きます。
TBD: