二次創作はリアルを回復しうるのか

最近の二次創作は、動機付けのないキャラに物語を肉付けして自分の好みのままにキャラを染める方向にますます進んでいる。最初にそのことを実感したのは、1年前に某最萌トーナメントで立ち絵もないキャラがベスト4まで進んだときだった。これまでも脇役が主役より人気を博するなんてことはしばしばあった。でも、原作のストーリーのなかで等閑に付されたモチーフをプロット(フォークナーの定義する意味での)として二次創作が作られるという力学は同じだった。あるいは、作品のテーマや設定をうっちゃってキャラの造形のみを膨らませた作品は多かった。けど、原作のディテールをデフォルメするなど、ある程度原作の求心力はあった。
前者のようなプロット重視の二次創作を書くのが難しくなっている、というのもある。例えばハルヒらきすたは、原作自体が二次創作的だ。ハルヒでは、プロットの発生すらハルヒの存在というメタな次元に追いやっている。細田版時かけは、二次創作を語りうる可能世界が残る余地を原作が否定してしまっている。しかし実際のところ、トラウマを描くのに作品のディテールに立ち戻るのではなく、単純に共感のための記号として使っている作品の方が受けている。あるいは、原作の小ネタを再利用するよりも、"歌"とかもっと抽象化されたネタを勝手に膨らませる作品の方が受けている。らきすたの同人や初音ミクの同人など、人類はここまで進化したのか、なんて思ってしまう。

京フェス東浩紀がこんな感じのことを言っていた。ループものはデフォであり、作品の作る世界はもはや一つの物語で描かれるものはなく、可能世界も含めて描かれるものである、ちょうど原作に対する二次創作のように、いくつものバリエーションを繋ぎ止める作品に可能性がある、と。しろうとさんが、デリダの「署名の論理」だと言及していた(京都SFフェスティバル(合宿)「リアル・フィクションからその先へ」まとめ - 萌え理論ブログ)。けれども、上に書いた通りもはや厳密な"署名"を望まないのが、現在の二次創作である。

初音ミク――データベース化とシミュラークルへの限りなき欲求 - シロクマの屑籠」で、初音ミクは女の子の声すらシミュラークルにしてしまった、とp_shirokumaさんは書いている。で、初音ミク俺の嫁、とかいうのを表現するために二次創作が書かれている。ここにおいて相転移が起きているように思う。手段と目的が逆転している。これまでシミュラークルは物語を効率的に理解するために存在していた。かつて酔狂さんが"Kanon"はキャラを立たせるためだけに物語が存在している初めての作品、ということを語っていた。それが今は、シミュラークルを立たせるためだけに物語が作られている。そのシミュラークルの重要性を確認するために物語が再生産されている。
二次創作が異なる可能世界を自律的に作っていく枠組みになればいいのに、とずっと思っていたのだけど、現状を見ているとかつてのエヴァみたいな作品が現れない限りそういう現象は起きなそうだ。ヱヴァはエヴァの二次創作だろうし。