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そろそろ不気味の谷の手前の山の名前を決めよう

特別オープンフォーラム「仮想世界はIT時代閉塞の現状を打破できるか?」 - END_OF_SCANであげた3Dによる仮想世界で新たに生まれる価値として、共時性、身体性、プログラマブルがある。このうち共時性は、ブログなどで個人情報をさらしていればその人の人となりがわかるようになっている。身体性については、コンテンツを引用して語ることでコンテクストなしに体験を理解できるようになっている。プログラマブルについてはかろうじて可能性があるが、行為に対する報酬を設定できないという点でまだまだ難しい。

SecondLifeの経済が全然回っていない一方、Forza2のバーチャル痛車が管理者の思惑を超える方向で成功しているのは大きな示唆だ。物質的な世界を再現しようとするVRのアプローチは、コストが大きすぎるってことだ。東大の広瀬先生もリアルは広すぎるとVRではなくARの可能性を示唆していた。

酔狂さんも言っている通り、不気味の谷の手前の山は重要な概念でしょう。リアリティは、社会的環境とのインタラクションで得られる体験(コミュニケーション、言語、メディア)と、物質的環境とのインタラクションで得られる体験(身体性、没入感)とからなる。手前の山は前者によって得られる。不気味の谷を越えるだけの技術がとても困難である限り、この山がリアリティの極大点になっている。現実環境を再現する技術よりも、コミュニケーション技術の方が成長の速度は速い。何より人間がそちらの方向に進化してきている。メディアについて言えば、1年前に書いた方向に進んでいる。コンテンツは、ボードリヤールが言うように消費物ではなく、東浩紀が言うようにデータベースの要素でもなく、感情や体験を抽象化して表現するための言語として解釈されている。コミュニケーションに組み込まれることで、20世紀には見られなかったコンテンツ流通が生まれた。

初音ミクについても酔狂さんに賛成で、不気味の谷の手前の山が高くなった、ということだと思う。逆に多くの人が不気味の谷を越えたと思っていることが私には興味深い。アテンションエコノミーの報酬系にさらされネタ化した社会に生きていて、自分のリアリティが変質していることを認識していない、ということじゃなかろうか。エコシステムが認識の形を変え、人間性の定義すら変えている。それを踏まえ人間が進化していると書いたのが前日のエントリーでした。

WIRED.jpはずっと私が考えていたことと近いと感じる。でも、現実を複製しているというのは変だ。少なくともベンヤミンの言う複製とは全然違う。この意図的な誤用は釣りじゃないかとさえ思う。ベンヤミンの言葉を使うなら、受け手によるアウラの再構築と言えるのではないか。アウラとはこのエッセイにもあるように、空気(2ちゃんねる的にいえば、《ふいんき(なぜかry)》)を意味する。複製時代以前、芸術家が一人で世界と歴史に問いかけ作品にアウラを封入した。ベンヤミンは芸術作品のオリジナルが持つアウラが複製技術によって失われたと言った。ニコニコ動画においては、受け手の感情がコンテンツと一体になった形で提示される。個々の小さな光が集まり作品に光背が生まれる。それは、受け手が自分たちの意思で作った、これまでにはなかった新しいアウラである。またそれは、個々の体験をソーシャルに集約するシステムと受け手のリテラシーがあって初めて目に見える形で現れた。

んで、名前だけど、前の下書きにあった通り、『親密さの山』とか『セカンド・ヒル』とか硬いのしか思い浮かばない。リアリティについては、ソーシャルリアリティと呼んでみる。

(追記)pooneilさんによる、みんな同じようなことを考え始めているよ、というエントリー