終末の物語について

何が言いたいかわからない話ってありますよね。それこそSREとか虐殺器官とか。同じ70年代生まれだと秋山瑞人の作品なんかも訳分からん面白さだけどやっぱり何が言いたいかわからない。私はそういうお話大好きだけど、そういうのを全否定するタイプの読み手もいる。

言いたいことなんて何もないんですよね。普通の話は何かについて共感させたいから書かれている。ハードボイルドちっくなニヒルな話でも、ニヒルさや主人公のスタイルについて共感させたいから書いている。不毛な話はそれすらない。信じられる確かなものなどない、というのが一定の共通認識としてある。村上春樹が描いてみせた日常の徒労感の先、どうしようもないことそのものについて語ろうとしている。そこから道を決めていく人の作品になるのか、道を決められない人の作品になるのかは、書き手によりけりだけど。

あるいは、構造・ルールについて書いている。SREなんかは、意図的にそれをやっている。虐殺器官では、ゲームのような殺戮と切り離された体験とが並べられ、虐殺の言語が伝播する構造について書かれている。

だから、共感するものは何か探しながら読んでいる人には、不毛な物語が何を書いているのか見つけられない。だって、共感するものなんて存在しない、というのが共感しうることだもの。性質が悪いことだ。

私淑するスタージョン先生なんかは、その辺うまく(?)着地してるなぁなんて思う。「ビアンカの手」では手との一体化という形でポジティブに着地しているし、「輝く断片」では末尾の一瞬の煌きですべてが昇華している。一歩間違うと不毛になりそうな「ルウェリンの犯罪」も絶妙な着地だ。それでも、Amazonでの感想を読む限り、どうにも人を選ぶ作品ではあるのだが。

ジーン・ウルフなんかは、書かれたものを信ずることへの疑いを軸に複雑で不毛な作品ばかり書いているけど、その中でも書かれたものそのものをポジティブに描いた「デス博士の島」は比較的多くの人に受け入れられやすい作品になっている。

不毛を突き詰めていくのも面白いのだけど、下の世代にはそれは通じないので、構造を踏まえた上でその射程上で像を結ばせるのは必要なことかもしれない。