エヴァと、ヱヴァ新劇場版・序の違い

二つを比べると、ヱヴァが何を目指しているのか、それによって何が失われるのかがわかる。以下、数多あるエヴァ解説本における白眉「エヴァンゲリオンの夢―使徒進化論の幻影」を引用しながら話をすすめる。

リリス

エヴァンゲリオンの夢」の冒頭に次のような記述がある。

矛盾の塊のようなこの場面で、智天使めいたカヲルはひとりごとのようにこうつぶやいた。
  ちがう、これは……リリス。そうか、そういうことか、リリン。
わたしは耳を疑い、目を見はった。それまでアダムだとほのめかされていたものがリリスであったというのは、リリスについていささかなりとも知識のある者にとって、天地が逆転したかと思えるほど衝撃的な発言にほかならない。このすりかえはすばらしい発明であり、『新世紀エヴァンゲリオン』における最大のからくりといってもよいあろう。この見せ場のためにこそ、そもそも『新世紀エヴァンゲリオン』がつくりだされたのではないかと思えるほどだ。しかしタイミングが悪すぎる。遅きに失したといわざるをえない。(ry)のこり二話という制約のなかでは、手練手管の限りをつくしたところで、予定された必然の帰結を視聴者が納得する形で語りつくすことはとうてい不可能である。

一方で、新劇場版では、エヴァに乗れないシンジをミサトがセントラルドグマに連れて行く。そこでミサトは白い巨人を、リリスと説明していた。これから、新劇場版ではオカルト的な要素、エヴァと使徒・アダムとリリスの関係により重点を置いて描かれると考えられる。使徒の血が赤いこと、コアを破壊されると赤い血を撒き散らして爆裂することは、それを補強する傍証となるだろう。

初号機からは赤い液体がほとばしったのに対し、使徒の体からは蒼い液体が噴出するのが興味深い。(pp.55)

ラミエルヤシマ作戦第三新東京市

"STUDIO VOICE"のエヴァ特集"NewType"のエヴァ本に、エヴァのTV放送の際の企画書が載せられている。本の山から発掘しました。関連する部分を「エヴァンゲリオン」企画書 - END_OF_SCANに引用したが、新劇場版・序は企画時のエヴァにより近い内容となっている。作品のギミックのうち男らしさを表すものは、新劇場版・序でさらに強調されている。ヤシマ作戦の燃える展開、第三新東京市のビル群、ラミエルの変形。その中で注目したいのが、ラミエルによる第三新東京市への侵入だ。

テレヴィ版ではシールドの掘削が処女を貫く男根のイメージを喚起するが、劇場版からは新たなイメージが引き出せる。ジオ・フロントを一部とする巨大な地下空間の実態が、黒き月と呼ばれるリリスの卵であるとされているからだ。ジオ・フロントの天井にして第三新東京市の土台である装甲板を、卵の殻というより卵膜に相当すると考えれば、シールドはにわかに男根から精子へと一変し、融合の対象であるアダムが卵殻として位置づけられることになる。(pp.102)

一方、新劇場版・序では、ラミエルの侵入はより男根的になっている。そこから思いを巡らせれば、第三新東京市の生えてくるビル群はより男根的になっているし、ヤシマ作戦についても、「エヴァンゲリオンの夢」で、

見かたをかえれば、極限まで高まった緊張が使徒撃破とともに一挙に解放されることで、圧倒的な感動をおぼえるのだ。そしてこの緊張の高まりとその解放は、陽電子砲による狙撃とあいまって、射精のイメージを鮮明に浮かび上がらせる。(pp.106)

とあるが、新劇場版・序のヤシマ作戦はよりその色合いを強めていると言える。
この後、「エヴァンゲリオンの夢」では、ヤシマ作戦のカタルシスを父子の相克というテーマと重ね合わせて読み解く。

このエピソードがシンジのイニシエーションを描いたもので、シンジはレイに助けれらて父ゲンドウを象徴的に倒したと読み解けるのだ。これ以後かなりのあいだ、いままでとはうってかわって、シンジが思い悩む姿を目にすることはない。(pp.107)

ヤシマ作戦のギミック・演出は、庵野監督が少なくとも新劇場版・序において企画段階での「ヱヴァンゲリオン」を描こうとしていることを表している。

一方でTV版の「エヴァ」では、物語のコアが母権的なものにシフトしていった。前掲にあった「黒き月」の設定は、劇場版がTV版での顛末に折り合いをつけるものだと言える。そして、新劇場版・序では、そのような要素が入念に排除されている。

家族としてのミサト

エヴァ」でのミサトは、作戦課長でありシンジの保護者であった。作品が続くにつれ、シンジの社会的関係のインターフェースであり、シンジの家族であるというアンビバレンツさを先鋭化させていく。一方、新劇場版・序では、前者の役割を全うしている。逆に、「エヴァ」では親を失い自分の居場所を探している、という二人の共通点が劇場版のラストでようやく焦点を結ぶのに対し、新劇場版・序では早々にそれがほのめかされている。それ以外では、作戦課長としてのスタンスを崩さない。陽電子砲での第1射を外した後、己を失うシンジに対し、ミサトは「男の戦い」をするよう促す。

ネルフ本部におけるミサトとの会話で、シンジが「叱らないんですね。家出したこと」とたずねるのは、ミサトが自分をどう思っているかを確かめるためのものである。(ry ミサトは沈黙で応える。シンジは一抹の希望をうちくだかれ、ミサトを他人と呼ぶ。(pp.81)

これや、「ただいま」「おかえりなさい」といった家族関係に関わるシーン、さらには初号機の正体に思いをめぐらすようなシーンが削除されていることからも、新劇場版・序では、「エヴァ」の最もユニークな要素だった母権主義的な要素を排除していると言える。

トリックスターとしてのミサト

新劇場版を見てて最初にひっかかったのは、ミサトを中心とするコミカルなパートがほとんど削除されていたことだった。あったのは(エビチュじゃなくて)エビスビール一気飲みとその後のシンちゃんのキン隠しぐらいだろうか。「ガマンなさい男の子でしょ」もなかったし、最初にリツコが現れたとき驚きを表す記号も出てこない。シンジとミサトが初めて会う第壱話の部分でも、N2地雷の直撃を受けた車を二人で元に戻してからすぐに、カートレインのシーンに移っていた。もちろん尺が足りないのでコミカルなパートは真っ先に削られたのだろう。しかし、それによりミサトの役割も退行することになる。「エヴァンゲリオンの夢」でこのような記述がある。

これ以降のシンジとミサトのやりとりがコミカルなものになっているのは、(ry、物語におけるミサトの個性と立場をほのめかしてもいる。『新世紀エヴァンゲリオン』におけるトリックスター加持リョウジの登場はまだ先のことにせよ、ミサトはリョウジの役割を補完する立場にあるため、ときに厳格な管理体制から抜け出す特殊な存在だと見なければならない。シンジの同類であり、ネルフにおける異分子なのである。(pp.35)

TV版では、登場人物たちがさまざまな思惑でネルフに所属していることが示される。一方、新劇場版・序ではやはりそのような描写は排除されている。オペレータ三人の影の薄さだけでなく、例えば、

照明道具がシンジの頭に落ちてきたとき、初号機の右手がシンジの頭上にかざされ、照明器具をはねとばす。これを目にした者たちの反応が興味深い。完璧なシナリオをつくりあげたゲンドウは笑みを浮かべ、エヴァンゲリオンをよく知るリツコは「ありえないわ……動くはずないわ」といって驚き、実戦担当のミサトは初号機がシンジを守ったことに対して「いける」とつぶやき、それぞれの立場を明瞭に示している。(pp.42)

といったシーンも削除されている。逆に、語られるのはネルフの結束力である。ヤシマ作戦のブリーフィング、陽電子砲での第1射を外したシンジを鼓舞するミサトの言葉。
新劇場版・序を見る限り、(旧)劇場版のようにネルフが戦略自衛隊に襲撃されることも、加持の意思を受け取ったミサトが真実にせまることもないだろう。そして、最初の他人としての母の役割を担っていたミサトが原始の海でシンジに十字架を託することもないだろう。「エヴァ」はミサトの物語でもあった。「ヱヴァ」でのミサトの役割は違ったものになりそうだ。

「ヱヴァ」はどこへ行くのか

新劇場版・序は、使徒を撃退するため組織一丸となって戦う昔の男の子のためのアニメそのままである。そこに家族や母親といった要素は入ってこない。「エヴァ」を特異たらしめた要素は排除されている。それは最初の「ヱヴァ」の企画書の通り庵野監督が最初に描こうとした物語である。では、「ヱヴァ」は最後までこの調子で行くのか。いやそうではないだろう。新劇場版・破の予告に次のようにある。

『次第に壊れてゆく碇シンジの物語は 果たしてどこへ続くのか』

ここから先は完全な妄想だけど、このシンジが庵野監督だとしたらどうだろう。男根主義的な王道の物語を目指した「エヴァ」は、さまざまな要因によって次第に壊れていった。「ヱヴァ」への庵野監督の所信表明にこうある。

『「エヴァ」はくり返しの物語です。/ 主人公が何度も同じ目に遭いながら、ひたすら立ち上がっていく話です / わずかでも前に進もうとする、意思の話です』

もし、「ヱヴァ」が、周囲に疎まれたり絶望しながら何度も立ち上がった庵野監督の歴史の物語であり、庵野監督がこれまで作り見てきたアニメの歴史の物語であるなら、それは閉塞したものを打破する力を持つ作品になるのかもしれない。庵野監督個人が潜り抜けてきたものをわれわれも見ることができるのかもしれない。

(追記)
2007-10-22 - 摂津堂テクストを見る限り誰も書いてないので、自分で書こう。
あずまんも言っているように、今時ループなんて珍しくも何ともない。そんなことを指摘しても何の意味もない。本当に問うべきことは、何故ループさせるのか、ループによって何を描こうとしているのかです。
私は、庵野さんは「ヱヴァ」において、エヴァ前とエヴァ後の流れを止揚アウフヘーベン)してくれるのではないか、と密かに期待しています。「巨大ロボットアニメ」としての男の子的な作劇と、シミュラークルが散りばめられセカイ系という形をとる母権主義的な作品世界とを衝突させ、そこから何かを見出す。それはこれまでにない作品になるだろうし、時代を変えてしまったエヴァだからこそ出来ることだと思うのです。
「壊れていく物語」でシンジが対峙するものは、世界の解体だろう。"動物化"する世界の中で「今、自分は何をなすべきか?」という問いへの解答を見つけないといけない。それはとっても困難な作業だろう。けどそれは、「オネアミス」から「エヴァ」までさまざまな挫折と世界の解体を体験してきた庵野さん以外の誰にも語れない物語だと思う。そして、シンジがその新しい物語の入り口に立つことが出来たのなら、エヴァファンとしてはこんなに嬉しいことはない。

そう思うと、「ヱヴァ」の行く末に希望を持ってしまったりするのです。