物語の不気味の谷、それに対抗する試み

ぐだぐだと書いてみる。
先日「ダイ・ハード4.0」を観てきたんだけど、ラストがこれまたイヤーな後味だった。マクレーンが「俺は英雄なんかじゃない」なーんてことを車に同乗するコンピュータおたくな青年に言うシーンが途中にあって、ラストに青年に向かって「お前も英雄だ」なんてことを告げた後に娘と病院に向かって終わり。アクションのどたばたで娘と絆の確認はしたけど、どーもしっくりこない。結局マクレーンはどこまでも一人であるように感じてしまう。「スパイダーマン3」もそんな映画だった。ハリーの憎しみは消えMJとのわだかまりもなくなって、ピーター・パーカーは絆を再確認しているようなんだけど、やっぱりしっくりこない。脚本がどんなに策を弄しても、ヒーローたちが本当に絆を確認したようには感じないし、帰る場所を見つけたとは思えない。とってつけたような物語の終わり。

ヒーロー、王、真理を知る者が孤独ってな話は、それこそアーサー王までさかのぼる典型的なモチーフではある。真実に触れ力を得る代償として誰にも理解されない。まー、ハードボイルド的なかっこよさだけど、見てる側は彼らの孤独の中で毅然と力を揮う姿にこそヒーローとしての像を見出す。彼らはもう記号化してるんですよね。だから後で、変に言い訳されても困る。
『スパイダーマン3』と“赦し(ゆるし)”の難しさ - 荻上式BLOGで指摘しているように、「スパイダーマン3」は正義を揮うことで生まれる暴力を赦そうとしている。ただ脚本家が期待するようには、見ている側はスパイダーマンへの救いを感じない。上のブログに『「赦す」ことのできるストーリー”が偶然にも舞い降りた』、という表現があるけど、それはそんだけありえない赦しを持ち出してこないとスパイダーマンを救えなかったからだと思うのです。きっと脚本家はそう考えた。しかしそれでも、スパイダーマンを赦すことには失敗している。見ている側は居心地の悪い思いをしている。

それは丁度、不気味の谷での振舞いに似ていると感じる。孤独でありながら力を持つ類型的なヒーロー像は谷の手前側の山のてっぺんにある。記号化、メディア化している。「ダイ・ハード4.0」や「スパイダーマン3」は主人公像を多様で人間味のあるものにしようとしている。でもそれは、多様さがキャラの力の臨界を越え谷に落ちる結果となる。主人公の力は奈落に沈んでしまう。

ヒーローが現実との折り合いをつける、ってな終わり方ではなかなか上手くいかない。とはいえ、そのまま放っておいたらヒーローは彼岸の先まで一人行ってしまう。「マトリックス」のネオのように。「指輪物語」のフロドのように。内容は知らんけど、ハリーポッターもそんな感じの終わり方みたい。「指輪物語」ぐらい昔の作品はともかく、今になってもそんな不毛な終わり方を濫造されても今更なのです。

とはいえ、ヒーロー、王、真理を知る者が出てこないと何も面白くない。「げんしけん」みたく内輪万歳でぐだぐだやっていてもわくわくはしない。つーわけで、少なくともウェルメイドな物語において、一人でいるヒーローの身の振り方はかなり行き詰まり気味である。

ここまでが物語の不気味の谷の話。ここからがそれに対抗する試みの話。

通常、ヒーローの身の振り方に目を向けさせないために、よく使われる方法は2つあります。相棒を用意する方法と、妹(いも)を用意する方法。相棒とは、ホームズに対するワトソン、フロドに対するサム、安倍晴明に対する源博雅で、理知的で真理を知るヒーローに対し、相棒は天然で無自覚に世界のより深い真理に直結している。まぁ、片っ方がはっちゃけたり、もう片方が覚醒したりして結局二つの力が相殺しあうてな終わり方をする。「ピンポン」もそのバリエーションかな。妹、という言い方が正しいのかはよく知らなくって、もとは「陰陽師」のあとがきで見かけたものなんだけど、ヒーローが彼岸に行ってしまうときに嘆き悲しんでくれる存在のことです。これはまぁ、色んなところで応用されている。

んで、「フラワー・オブ・ライフ」、それともう一つ、「ネギま」の最新刊は、新しいアプローチを示してるんじゃないかな、なんて思うのです。

もちろん、みんなが指摘するように群像劇や多様性ってのはお話があっち側に行ってしまうのを防ぐ有効な方法だとは思うんだけど、それだけじゃ足りないと思う。FOLにはさまざまな人が出てきてそれは面白いのだけど、その中で物語の彼岸に近い人と遠い人とがランク付けされて描かれているところに私は注目している。春太郎は、死からとても遠いところにいて相手に思慮することもなくて天使みたいな存在だけど、別に彼がシンジやらのように他の人と違うところに立っているのではなく、彼とわれわれの間にさまざまな人が充ち満ちているところが大切だと思う。見た目はイケメンなのにオタクだったり、ぽっちゃりしててすごくいい人だったり、貞子のようで実はかわいくてでもマンガ書きだったり。あるいは、日常の学校生活にあわせて描かれるのは、創作活動だったり劇だったり。つまり異なるフィクションのレベルを細かく作品中に配置している。それがあって初めて、春太郎は他の登場人物よりは世界の境界に近いところに立っているけど、こっち側に踏みとどまれている。あっち側に落ちていかないレベルで他の登場人物より少し変な存在として描くことで、変な十字架を背負わないままで跳躍することができている。逆に、単純に多様性を描いているだけでは、話が跳躍しないわけで。つまり、神話の文法を使わず、冥界に降りていかず、谷の手前を歩き続ける、その手法に可能性を感じるのです。かつ、社会から隔絶されたことを否定せず見つめ続けるだけの昨今のニート小説とも違って、ちゃんと動いている。日常のなかの濃淡の揺らぎ、速度の変化をとらえることでダイナミクスを作っている。

ネギま」は逆に、あっち側について同じように揺らぎを持たせて描いている例だと思います。最新刊の中の"Endless Death Study"で、ネギやエヴァや刹那らの苛烈な過去を垣間見、自分が平穏と幸福を捨て去ることになるかもしれないことを悟っていてもなお、「あんたみたいなバカやあいつらと友達でいるために」一歩を踏み出す明日菜に、「マトリックス」のネオや「指輪物語」のフロドのような殺伐としたやり切れなさは全く感じない。彼女の行為に説得性を感じるのは、世界のあちら側に踏み込んでいるネギやエヴァや刹那やさまざまな魔法使いたちを同一ではなくスケールをもって揺らぎをもって描いているからだと私は思います。

フラワー・オブ・ライフ」も「ネギま」も学校生活のモラトリアムが話の核になっています。そこにフィクションを加えて凹凸をつけ、裏に潜む虚無に触れている。思えば、20年前の「ビューティフル・ドリーマー」からずっと、同じようなテーマが繰り返し描かれてきた。いつも、世界を反転させる真理に到達する者は一人だった。今まで、何人もの英雄が一人で彼岸に旅立ち、あるいは申し訳ない顔をして戻ってきた。物語の不気味の谷の前に記号的に振舞うことしかできなかった。
フラワー・オブ・ライフ」も「ネギま」も、世界のこちら側あるいはあちら側を多様性と揺らぎと濃淡をもって描き、世界を支えるだけのダイナミクスを作り、誰も不気味の谷に落ちることなく物語に豊かさと躍動感を与えている。ようやく、神話に対抗する方法、「ビューティフル・ドリーマー」の呪縛から逃れる手がかりを見出した――そんな風にさえ感じるのです。