サバイバルについて

標準化会合に参加し始めたのは3年ほど前からだ。何度か提案方式を持っていって発表し、実験をして採用されなかったり、ということを繰り返した。そんな中、ある会合で自分の提案する枠組みが外されそうになった。私が発表したときでなく、違う時間に唐突に議長が言い出したのだ。モバイルからブロードバンドまで接続するような環境を考えると、彼の言い分はあまりに乱暴なものだった。前の会合での合意をいきなり反故にするようなものだった。一緒に来ているはずの上司も部屋におらず、助けてくれるような人はいない。一人で立って、声を張り上げて壇上の議長に反論した。それはおかしいんじゃないの、と。自分の提案する枠組みの必要性を主張した。
その時に初めて、伝えようという意思があるときは英語をしゃべることを尻込みしない、という事に気づいた。信念を行動に転換するというのがどういうことか判った。自分の信じる世界と相手の世界とを擦り合わせるために何をしなければいけないのか知った。情報技術の進歩に比べれば他愛もない出来事だけど、あれはアイデンティティクライシスだったし、私にとっての一つの契機だった。
私は引っ込み思案だし人見知りするタイプの人間だ。それでも、昔よりは自分が正しくないと思うことについて声をあげるようになった。英語だって、それまで勉強する意味を見出せなかった。自分の世界とロジックを伝えることがどういうことか腑に落ちるようになって初めて、より論理的にしゃべれるようになりたいと思った。言葉というものは、伝えたい意思があって初めて力を持つということを実感した。英語を学ぶにはまず、英語で伝えたいことを見つけるのが必要だと今でも感じている。
人は後天的に変われるのだと思う。ネットの多くの声にせよ何にせよ、自分の意思を確かに持つための根拠は、敵に斬りこむときの支えになる。あとは相手を説得するための準備だ。そうやって戦って、相手から何かを引き出し、生きて帰ってきたとき、自分に何ができるかが分かるのだと思う。
大切なのは、ちゃんと生きて帰ってくる、ということだろう。その点で欧米の文化圏の方が日本よりサバイブしやすい、と感じる。日本では、自分と反対側にいる者は話を聞く前に自分の立場を決めていて、何を言っても意見を変えないということがとても多い。現状維持を前提とし、自分の地位や立場をベースとして考える。実際、日本の社会の中にいてゼロベースで考えるのはとても難しい。そういう人と対峙しても、消耗し尽した末に死んで帰ってくるしかない。上に書いた議長と戦ったときは、他の参加者が賛同してくれて結局その枠組みが残ることになった。次の日から、色んな国の参加者が声をかけてくれたり友達になったりした。
相手に通じるよう正しい言葉を使うことがサバイブするのに最も重要なのだと思う。自分に閉じた言葉をいくら尽くしても、消耗して死んでしまう。言葉は意思のみから発せられてはいけない。意思は貫くものでなく世界に響かせるものなのだろう。