いや、いや、そんなところに落ち込んではいけない

小林秀雄の「無常といふこと」にでてくる「過去から未来に向かって飴の様に延びた時間といふ蒼ざめた思想」はネットそのものだよね、と教えてくれたのはHIDさんだけど、キモいといふ事 - finalventの日記を読んだときふと、人もまた周囲の力や熱によって飴の様に延びてしまって、歪なままもとの形に戻れなくなるなぁ、なんてことを考えた。「上手に思い出す事は非常に難しい」という言葉は、ネットによって強制的に想いを喚起させられる私たちにとって尚一層重くのしかかる。「去年の雪何処に在りや」なんて言ってたら、キモいとふつーに言われてしまう。


追記> suikyoさん
認識が広がっているのに比例してか、自分の強度が弱まっている、あるいは密度が低くなっているように感じます。
> ネットを見ていると,今がいったいいつなのか分からなくなる事がよくあります
これはよくわかります。「去年のWeb(あるいはGoogle)何処に在りや」なんて問いを投げても、虚空の中に消え去ってしまう。

昔のキモい人、あるいはレクター先生のようなフィクション上のキモい人、あるいはNetNews碩学なキモい人、あるいは第1世代のおたくは、みんな知とか痴とかを自らに織り込んだ強度のある人でした。

そもそも、前掲のエントリを読んで思ったのは、ネットこそが人をキモくしているということでした。社会的というのは多くのネットワークに正常にアクセスできることで、それができない香具師はキモいとなる。互いに繋がりやすくなったので、異物と判定される閾値が下がったんでしょう。キモメンのチープ革命

社会の中で異質かどうかの判定は、自身の認識のあり方と大きく関わってきます。キモさそのものも参照的になる。今は、知も痴もreferentialですよね。作画オタがWikipediaの知識をなぞっているだけ、とか。

未来心理研究会 公開討議「モバイル社会における技術と人間」 - END_OF_SCANにある斉藤環先生の話を思い出します。


統合失調症にしても欝にしても、軽症化している。個人の病理が浅くなってきてる。
その代わりあふれ出している、共有されている。
境界例はストーカーのように世俗化している。
境界性人格障害になるようなことを生活の中でしている人が出てきている。

個人病理を深からしめているものは個人の隔絶。
今ではネットワークによってそれが拡散している。
狂気が芽の段階で摘まれている。メディアによって共有されている。
いろんな人間関係の中で、病理が現れる。
ネットで粘着質だったり。