生命システムでは集合知は生まれない

さとーのWeb日記−AIとWoC
1ヶ月たっちゃったw。他の人がまとめているのを読むとまた整理される。WoCの実装不良が本質的なものなのか単に実装ミスによるものなのか。私は前者だと思ってる。なぜなら、人間の系では多様性と継続性はトレードオフの関係にあるから。
去年、DoCoMoモバイル社会研究所のカンファレンスで、カンブリアンという取り組みが紹介された(→モバイル社会シンポジウム2006 − ケータイメディアのリテラシーについて - END_OF_SCAN)。ケータイに撮りだめしている写真を、他の誰かがアップした写真に関連づけてネットにアップしてもらう、というものだ。写真同士でリンク構造を作り、系統樹のようなものができていく。実験ではある程度数が増えると急に樹が爆発的に成長していったらしい。それが丁度進化プロセスのカンブリアン爆発みたいで、ネットの可能性を示している、ということだった。しかし、私はもう一つの特徴の方がすごく気になっている。ある程度大きくなると、樹はどれも成長を止めてしまっていた。もちろん、個人のケータイのメモリに残っている写真は限られているからいずれ成長は止まるんだけど、着実に成長をしないのは、集合知の理屈からするとおかしい。
継続的に自律的に動作し続ける生命システムであるオートポイエーシスの概念を踏まえればそれも道理だ。河本英夫先生の考える「オートポイエーシスの核心」は二重作動だ。内と外が別の駆動系で動作することが全体システムが継続的に動作するのに必要だというものである。Webの小循環 - END_OF_SCANでも2つの循環について紹介した。ネットの言論を見ればよくわかる。マスコミやカスラック叩きなどエスタブリッシュ層へのカウンターという形でネットの議論は継続性(自己同一性といってもいい)を保っている。

あらゆる生命システムは、世界を内と外に分けることで形を保つ。「肉中の哲学」は、脳や感覚器官がそういう働きをプリミティブに持っていることを示していた。機械と人間の本質的なアーキテクチャの違いはそこにある。
生命システムは多様であり続けない。状態が多様でエントロピーが高い状態にあるとき、個々の生命システムはそれを分類し内と外に分けていく。集合知もその過程の一つなのだろう。しかし、いったん組織化されると、今度はそれを維持するように働く。個々が本来持っている小さな違いが再び表出することはなく、組織を維持するルールに従って動く。
それは、生命がン億年守り続けている、世界の法則である。集合知が常に生まれるような状態で組織が存在し続ける世界に至るには、機械のように個のアーキテクチャを維持したままコネクションの重み付けだけで動作するよう生命システムが進化する必要がある。それは我々の想像を越えた遥か先の未来だろう。