落書きの思想

さっきまで隣にいた北欧の方のえらいおばちゃんが残していったメモ帳には、落書きがいっぱい残っていた。落書きといって絵じゃなくて、幾何学模様のような、紋章のような、装飾文字のようなもの。ふと見ると一つ前のテーブルに座っている、ドイツあたりの兄ちゃんも幾何学的な落書きをしている。
そういえば自分もノートパソコンを持ち歩くようになるまでは、会議など(大学のときは授業)で暇つぶしのときに紙の端に同じように幾何学模様とか装飾文字の落書きをしていた。ブロードウェイフォントでAから書いていったり、TRON(映画の)みたいにワイヤーフレームっぽい地平線書いたり。そういえば、私の心の師匠である元上司も同じような落書きをしていた。
国も世代も違うのに、似たような落書きをしているのはすごく面白い。
そこまで考えて、ある事実に気づいた。以前に比べて世界をエレガントに記述したいという欲求が大幅に減っていることに。そして、基礎研究に対する欲求、数式に対する欲求が減っていることに。
今座っている席から見える落書きたち、あるいは自分の落書きを思い返すと、ただ漫然と変な形を書いているのではなく、ある一つの意匠を執拗に書き直していたり、そのバリエーションを試したりしている。あるいは、気に入った一つの意匠を何度もなぞって線を太くしたり、影をつけたりしている。
明確に目的として意識しているわけではなかったけど、落書きしていた頃の私は、ある理想の意匠、あるいはその体系を探していた。自分の体の中にある美しさを具象化したときの形というものをなんとはなしに探していた。あの頃には確かに、自分なりの世界の大伽藍があったように思う。自分の手の先、あるいはそこから書き出されるものが、どこに続いているか掴めていたように思う。
ノートパソコンを持ち歩くようになった今は、暇になるとメールチェックしたりWebを見ている。世界を自ら書き下していた感覚を手の中に感じることはない。それに変わって、Webと同じように情報をどう集積しどう見せるかというようなことに思いを巡らせているように思う。

人間が道具を使って情報を処理しているとき、同時にどのように思考するのか、どのように情報から構造を作るのかを、学んでいる。どのような形が自分にとって美しいのか、そこに至るにはどのように記述すればいいのか、自分の中に作り上げている。その積み重ねは自分の中での確信につながり、意思につながる。
ならば、図像学的、幾何学的な視え方で世界を捉えようとする者が、そのような形で世界を記述するための技術を開発するのは当然だ。そして、要素をソートする形で世界を捉えようとする者が、そのような形で世界を記述するための技術を開発するのも。
生物が内部に持つ驚異的な図像学的・幾何学的構造、算術能力を最適化するためのコンピュータの構造に照らすと、人が生物的幾何的思考体系から機械的算術的思考体系に移行していると言ってもそれほど間違いではないだろう。

指摘したいのは、道具が、そしてその道具を使っての思考が、技術の傾向を形作っているということだ。梅田さんが、茂木さんのpodcastingを引用し、旧来の一意的でエレガントに世界を記述しようとするアプローチがもはや絶対ではない、と言っているが、それが方式として優れているからというよりも、そのようにしか考えられない人が増えているからではないか。単純にコンピュータを道具としコンピュータの上で思考した人が増えた末の帰結にすぎないのではないか。