インタラクションの動ポモ化

下記エントリーの続き。つまり、あらゆるインタラクション、コミュニケーションは動ポモ化*1するんだろう。顔文字は身体性の前景化であると同時に、非言語コミュニケーションのデータベース化である。動物化=切り離された(記号化された)身体性だとして、その身体=枠が広がっているのだろう。場の共有感とか、被投性とか、環境とか。
ケータイなどのツールによってコミュニティが拡散している。これからは、コミュニケーションするときには、どういう意図でするのか前もって提示することが求められるだろう。さもなければ、どんなに言葉を尽くしても、PaPeRoの芸を見ていた客のように、最後までとまどいを拭えないことになる。
よく有機ELとかのデモで、そのときの感情を服の柄で表現するってのがある。そんな風に外見をコーディネートしなければコミュニケーションが始まらないかもしれない。あるいはケータイでアバターを見ながら。あるいはSecondLifeのような仮想世界の方が安心してコミュニケートできると思う人が出てくるんだろう。

前のエントリーで言いたかったのは、伺かのようなエージェントタイプのUIに求められるのは、擬人化ではあるけど、それ以上に動ポモ的なコミュニケーションを行うためのデータベースを逐次引いてくることだろう、ということでした。形式的なコミュニケーションからはみ出したものを"人間的"と呼ぶなら、形式的な部分をUIにまかせることで"人間性"ってやつは回復するのかもしれない。

*1:動物化」という言葉では個人と欲望という関係に回収されてしまう。データベースの共有というか社会通念の表れみたいなものをあまり表現できていない。欲望とか価値判断とか社会活動がこれまで大きな物語に基づいて行われていたのが、今は小さな物語に基づいて行われているということで、あえて動物的ポストモダン化、略して動ポモ化と呼んだ。