Think the difference

他人と違うものの考え方をするのはカッコいい。Appleの有名な広告"Think Different."は、正しい文法では"Think differently."だ。しかし、違いそのものについて考える人はほとんどいない。

10年以上ネットで無数の人の言い方や考え方を見てきた。NetNews碩学な先人たち、先モヒカン族の何人かは、他人との議論の中で違いを明らかにし妥当性を判定するという思考法をとっていた。しかし、自問する形で違いに積極的に目を向ける人は少なかったように思う。Niftyのパティオ、2ちゃんねる、ブログは、独り言の応酬でしかなく、乱暴なくくり、煽り、厨な断言のぶつかりあいになっている。今や、違いについて語っているのを見ることはまずない。

これまで、思考法を勉強したことのない人が多いだけなんだろうと思っていた。実は、気づかないふりをしていただけなのだが、もう目を背けるわけにもいかなくなってきた。

人は違いに目を向ける考え方を好まない。そして、違うものを切り捨てる切り口を共有するのが、社会で人同士が親密になるためのルールになっている。

得体の知れないもの、多様な世界に直面したとき、人はどちらかの方法で対象を認識する。
1. AはBにすぎない
2. AとBはCの点で違う
この2つでは1の方がずっと簡単だ。マッチングをとるだけだから。2をするには、AとBを個々の要素に分け、本当に違うものを選び出し、特定の物差しでその差分を測らないといけない。もちろん、あらゆる学問は、2の方法をとる。とはいえ、どんな研究者も日常生活では1を使う。変人になればなるほど2を使う。
とても悲しいことに、1の知識と2の知識は決して相容れない。1の知識は人を安心させる。わからないものを理解できる概念で囲ってしまえれば、怖くはない。ブログのトップエントリーの全て(全てだ!)が1の知識だ。人を不安にさせるような知識はアテンションを集めない。違いを捨てた知識だけが、扱えるツールとして受け入れられる。

ラリー・ペイジ「科学者は宣伝活動をしなければならない」と言う。しかし当然ながら、多くの科学者は宣伝活動をしているはずだ。しかし伝わっていない。なぜなら、科学者は2の知識を喧伝する。「弊社の技術は従来に比べて性能が30%向上します」とか。しかし、研究の難しさなんて知らない上役や一般人はこう言う。「それは何の役に立つの?」。求められているのは1の知識だ。ラリー・ペイジの言い分では、科学者に伝わらない。2の知識を1の知識に翻訳することを恥ずかしいと思うな、そのためのメソッドを身につけろ、と言うべきだった。

1の知識は、くくりから外れるものを見捨てる。そしてしばしば、その見捨てたものの大きさで、その知の価値を決める。よく、誰々は自分の世界を作っている、という言い方をする。男性と女性とに関わりなく、自分の世界を持っている、という形で自慢する。でもそれは、見捨てた世界に目を向けない狭量さを誇示しているだけ、己の見識の狭さを申告してるだけ、とも言える。自分の属している趣味がニッチであるほど、自分が特別なように思う人がいる。自分の好きなキャラがマイナーであることを自慢する人がいる。「俺たちって最強じゃね?」と自分の内輪を全能化する香具師がいる。彼らは皆、自分が切り捨てたものの大きさで自分の属しているものの価値を見積もっているのである。自分の内輪が、切り捨てた世界と等価であると誤認している。
1の知識を作る切口がその人の人となりを表すことになる。人が誰かと親密になるのは、その切口を共有するためである。これは異性/同性に依らない。

@nifty:デイリーポータルZ:対人スキルが高すぎる人で他人の愚痴を聞く、という話が出てくる。自分の切り捨てたものを、わかるわかる、と誰かに言ってもらえると、途端に親密度があがってしまう。接触時間が大きいほど親密度があがるというのもそうだけど、低レベル関数として人間の中にあらかじめプログラミングされている機能のようだ。人は切り捨てたものをともに追いやることで共同体を作る。これは歴史が証明している。

シモーヌ・ヴェイユは「重力と恩寵」で、人は内輪には例外に寛容的だけど、内輪の外の者には例外に不寛容だ、てなことを述べていた。キリスト教信者が殺人を犯しても、彼はたまたま凶暴だったから、という話になるが、ナチの一員が殺人を犯すと、だからナチは悪なんだ、という話になる。この種のロジックは至るところに見られる。十字軍や魔女狩りと同じぐらい周りが見えていない人はどこにでもいる。

でも、程度の多寡はあれ、社会はそうやって形作られる。個人対個人でも、集団対集団でも。そのような場で、いやあの人は魔女と呼ぶにはこの部分が足りないですよ、なんて言おうものなら破門である。いらないものを切り捨て、世界を簡単に理解できる切口を共有するのが、社会の約束である。そして多くの妥当な切口を持っている人が賢者となる。

1の知識はwisdomで、2の知識はintelligenceである。

ここまできてようやく、1ヶ月前に出した宿題(AIとWoC - END_OF_SCAN)に対する私の答えを書くことができる。なぜ、Wisdom of Crowdsは、Good old-fashoned AIと同じように振る舞うのか。それは、世界を切り捨てるための切口とそれによって得られる知=wisdomを共有することを価値とするよう、人の社会がプログラムされているからである。んで、WoCの場合切り口は人にとって心地よいもので、GOFAIの場合切り口はコンピュータの言語体系である。

そのとき、前に出した問い、"Is It Worth Being Intelligent?"は、次のように書き換えることができる。

"Is It Worth Taking Care of Difference?"

いま私は、カフカの「世界と自分が対立した時、世界に味方せよ」という言葉を噛みしめている。多分カフカはそんな積もりで言ったんじゃないんだろうけど。でも、叡智の誘惑、自己の拡大の誘惑から逃れるには、世界の多様さ、ズレ、特定の切口で収まらないものを愛するしかないのだと思う。