「センス・オブ・ワンダー」の終わりの始まり

大林「時かけ」と細田「時かけ」の違いはつまり、ドリーマーか"動物化"か、ということだ。月基地作ったり軌道エレベータ作ったりと跳躍できるのは、死の匂いが隠蔽されているおんにゃのこの特権ではもうなくなった。あるいは、太母的なものに到達できるのは、包帯な少女のようなトリックスターの特権ではなくなった。「時かけ」は、「センス・オブ・ワンダー」のお目出度さがなくても、"動物的"であることに目を背けなくても、跳躍できることを示した。SFに対する「時かけ」のアンチテーゼっぷりは、結構重要なことのように思う。SFの男根主義的な性格と、その裏返しである女性の変な神聖化は、これまでずーっと受け継がれてきた物語構造だけど、ようやくまっとうなAlternativeになるものが出てきたように思う。ジェンダーSFはカウンターでしかなかったからね。SFが見続けてきた夢は、これから静かに消えていくのだろう。