ペシミズム≠「生来の悲観主義」

悲観主義とオプティミズム - My Life Between Silicon Valley and Japan
もっと詳しい人や碩学な人はいそうだから簡単に。厭世主義、悲観主義で真っ先に名前があがるショーペンハウアーは、梅田さんのいう「生来の悲観主義」に浸っているわけではない。

著作『意志と表象としての世界』を紹介する松岡正剛さんの千夜千冊より、

そのペシミズムは、しばしば「厭世主義」とか「悲観主義」と訳されてきた。が、この訳語はあやしいと見たほうがいい。何かというとオプティミズム(楽観主義)と比較されすぎた。
 ペシミズムは厭世主義なのではない。むしろ「最悪主義」なのであって、ペシミストは世間を厭っているのではなく、こんなものは最悪だと突き離せているだけなのだ。いや、世間がくだらないというのではない。世界はそういうくだらない世間しかつくれないと見切ったのだ。
(中略)
 かくてショーペンハウアーは「解脱」による意志の哲学の確立に向かうことを決意する。そして、「生の意志」があるとするのなら、おそらくは倫理的な解脱感か、もしくは芸術的な解脱感をもつしかないのではないかと、まさにペシミスティックに断じたのである。


私には、梅田さんの言う『オプティミズム』は、最悪主義そのものに読める。世の中が悪に充ち満ちる中、ポジティブに物事をすすめるとき、ある種の解脱が必要だろう。
実際、Googleなんかは解脱しまくりであるw 例の「世界中の情報をuniversalにaccessibleにする」なんて倫理的な解脱だし、Googleトップページのデザインなんて芸術的な解脱だ。

そう、芸術なんだろう。村上春樹の「風の歌を聴け」(またかよと思う人はスルーしてね。好きなんだわ)に真の芸術は奴隷制度がなければ生まれない、みたいな一節がある。実際、日常で常にポジティブに考え続けるのは難しい。世の中苦しいことだらけでどうしてもそれに囚われる。そんな日常の悪から離れて『オプティミズム』を持つとき、誰かがそれを肩代わりしている。そこに目を向けるかどうかなのだろう。

 「共苦」(Mitleid=ミットライト)とは、やや聞きなれない概念であろう。
 しかしながら、よくよく考えてみると、この言葉をつかうことがそうとうに深い意味をあらわすのかもしれないことが見えてくる。
 われわれは自分の苦しみというものを、自分だけの苦しみだと感じていることが多い。けれども、多くの苦しみ、たとえば失意・病気・貧困・過小評価・失敗・混迷・災害などは、その体験の相対的な差異こそあれ、結局は自分以外の誰にとっても苦しみなのである。まして、自分の苦しみが相手の苦しみよりも強いとか深いということを、相手に押し付けることはできない。相手も同じことを言うに決まっている。
 このとき、われわれは「共苦」の中にいることになる。誰だって「苦しみがない」などとは言えないはずなのだ。
(中略)
 ぼくの感じでは、このミットライト・ペシミズムの“共感と共苦の同時感覚”がわからないで、世をはかなんだり、自己意識に溺れたり、世の中に文句をつけるのは、あまりにも杜撰なのである。また、数滴のミットライト・ペシミズムがなくて、頽廃やアヴァンギャルドをかこつのも、かなりぐさぐさなことなのだ。

梅田さんの『オプティミズム』には私も基本的に賛成する。つーか、私自身もともとオプティミストだし。だからこそ疑問を持ち続けていようと思っている。

ネットの『オプティミズム』は、ネットのあちら側の「共苦」を相互扶助するが、ネットのこちら側の苦労は踏みにじる。そもそも理解にずれがあったとき、見捨てる。表現の正当性を重んじないのはその現れだと思っている。梅田さんの『オプティミズム』は当然、世間一般のオプティミズムではない。Wikipediaにそんな記述は一行もない。理解のずれがあったとき、「俺はこう思うんだ、俺はそれを正しいと思うんだ」てなアプローチをとる。梅田さんの上述のエントリーも同様のレトリックが含まれている。あのエントリーから、ペシミズムをどうくぐるかとか、オプティミズムの何が違うかとか、批判的な言説はできない。しても、ふふーんなんて聞流されるのが落ちである。梅田さんの『オプティミズム』には、そんな鈍感さというか傲慢さというか悪が含まれている。

もう一つ、疑念があるとすると、個人の『オプティミズム』はシステムにかなわない、ということだ。「生来の悲観主義を越えていく意志」ってやつは、実に類型的なのである。だから、ちょっと社会や環境が操作すれば、本人が意志を持っていると思いこんでいるまま容易にコントロールできるのである。宮台とかみんな言っていることではある。ずっと先回りをしているシステムに対して、さらにそれを越えるのは大変だ。たいていアイロニーとか変なものを持ち出すしかなくなる。今の宮台のようにね。

ともあれ、アランの『オプティミズム』の定義よりはショーペンハウエルの「ペシミズム」の方が普遍的で使い回しがきくように思う。