ブログの思考停止スパイラル

総表現社会において表現できないもの - END_OF_SCANで書いた「切り離された者のための言葉」として、科学があてはまる。科学は第三者(つまり切り離された者)が妥当な論理思考によって同じ結論に到達できることを至上目的とする。そのため、過去の論文を踏まえ、再実験をわざわざ行う。
レスを書くのもめんどい - END_OF_SCANが対象としているエントリーは脳科学の進歩を中で扱っていない。伝統的な西洋哲学の心と体の定義を揺るがすほどに、長足の進歩を遂げる脳科学も、このエントリーに言わせれば各論を解いているにすぎなく、茂木健一郎の努力が実ることないとまで言い切ってしまう。このエントリーは、茂木健一郎の努力が何なのか、科学が何を目指しているのかを語る言葉を持たない。それは、このエントリーの言葉が繋がっている人のための言葉で、科学がそこから外れているからである。

  • 科学の持つ理念はブログのような言説には必要ない
  • 脳科学の一つ一つの成果はブログのような全能性を満たすための場所には無駄な努力にすぎない

この2つは互いに密接につながっている。それは、つながりを維持するため、そこから外れているものに言及しないという点でだ。
わかりやすさを求めると、どこかで問題を単純化しないといけない。煩雑な問題、つながりの維持から外れる問題については思考停止する。そのようなエントリーを読んだ者がそれに沿って自分の意見を言うとき、前のエントリーの単純化を暗黙的に引きずっている。そうして次のエントリーは単純化に単純化を重ねることになる
そのような言説空間が形成されるのはWeb技術とも関係があるだろう。一つのリンクは、一つの記事/ページに対応している。Web技術の進展によりリンクの貼られるエントリーは細分化される。意見のぶれをカバーするにはそれだけリンクする手間がいる。異なる意見、主でない意見を併記することが困難になる。結果として、最もアテンションの高いエントリーに引用が集中することになる。
新聞は(少なくとも昔は)両論併記を行っていた。学術書では上例のような単純化には必ず作者が注を入れるなどする。それはバックグラウンドを知らない第三者にも判断のプロセスを提供するためだ。常につながるブログ空間ではそんなのはいらない。
こうして、切り離された言葉である科学や歴史は"自動的に"その意義が失われる。暗黙的に単純化を繰り返した結果、エントリーはもっともらしく見える。ブックマークする人は、そこにどれだけの単純化がなされているか考えることなく、"あとでよむ"とタグをつける
こうして思考停止は拡大していく。
見渡せば、はてブはバカばかり - albinoalbinism」は労働についての単純化が起こした思考停止を、「「マスコミが悪い」と言う思考停止 - こころ世代のテンノーゲーム」はマスコミについての単純化が起こした思考停止を扱っている。どちらの場合も、対象となっているエントリーは単純化をほぼ無意識に一つの作法のように行っている。
問題は、ハイアテンションなエントリーとともに、それが行っている単純化も目に見えない形で伝播していくということだ。今のところ、アテンションエコノミーはそれを回復する術を持たない。