Fate/Zeroのあとがきより

いま私は、思う存分、何の引け目もなく手加減抜きのバッドエンドを描く機会に恵まれたのだ。この胸の内に巣食う病理をどこまでさらけ出そうとも、総体としてみれば、あくまで私は、"愛の戦士・奈須きのこ"の片棒を担いでいることになるのである。ヒャッホウ!

ウワー、すげーわかる。
何かに寄りかかることで、逆に完全に独立に何かを書ける。片棒を担いだ相手を隠れ蓑(いけにえ?)にすることで、初めてデウス・エキス・マキナの見えざる手から逃れられる。体裁を借りることで、真の多様性が得られることがある。二次創作だからたどり着ける境地ってのが、やっぱりあるんだよ。
カルヴィーノの文学講義―新たな千年紀のための六つのメモ」があげるこれからの文学に必要なものは、「軽さ」「速さ」「正確さ」「視覚性」「多様性」と欠番になっている「一貫性」だった。「軽さ」「速さ」は、記述する対象と記述そのものとの相対的な密度で決まるもので、原作という基点がある二次創作は断然有利だ。「正確さ」は書き手の才覚によるところもあるが、あらかじめ読み手と共通了解のある二次創作の方がやはり有利だ。ゲーム・アニメ・マンガといくつもメディアミックスされている作品に対し、文学そのものが「視覚性」で勝つのは不可能。
それで、「多様性」と「一貫性」がどうなのか、これまでぼんやり考えていたんだけど、現時点では「多様性」についてはオリジナル文章創作より二次創作の方が期待が持てそうだという話でした。二次創作は逆に、「一貫性」において原作原理主義者とか対処しないといけないので大変なのかもしれない。