Webの明るさと小説の暗さ

総表現社会において表現できないもの - END_OF_SCAN」、あるいは過去のエントリーで何度か書いた、文章とWebの関係について。

僕はノートの真ん中に1本の線を引き、左側にその間に得たものを書き出し、右側に失ったものを書いた。失ったもの、踏みにじったもの、とっくに見捨ててしまったもの、犠牲にしたもの、裏切ったもの……僕はそれらを最後まで書き通すことはできなかった。
僕たちが認識しようと努めるものと、実際に認識するものとの間には深い淵が横たわっている。どんなに長いものさしをもってしてもその深さを測りきることはできない。僕がここに書きしめすことができるのは、ただのリストだ。小説でも文学でもなければ、芸術でもない。まん中に線が1本だけ引かれた一冊のただのノートだ。
村上春樹風の歌を聴け

Webでは、リストがリストのまま放置されることはない。ソーシャルブックマークRSSなどのWeb2.0技術はリストを自動的に世界中に発信する。項目はランク付けされ並び替えられる。失われたもの、踏みにじられたもの、見捨てられたもの、犠牲になったもの、裏切られたもののいくつかは誰かの役に立つために取り上げられる。そうして優劣が割り振られ、ある文章は共感をもってホットエントリーとして読まれ、ある文章は完全に消滅する。線の右側にあるものを左側に持っていくのがWebである。誰かが取り上げ、左側に移すことを期待して書かれるのがWebの表現である。

ある種の文章では、その反対のことが行われる。全ての不毛なものたちは同じ程度に価値がある。優れた書き手はそれらを慎重に配置し、明示的にそしてサブリミナルに読者を刺激する。

中条省平氏は「小説の解剖学 (ちくま文庫)」において、「中国行きのスロウ・ボート (中公文庫)」の構成をサンドイッチ方式と紹介した。小説の「中国行きのスロウ・ボート」は、話のキモとなる中国人の女性のエピソードを、別の2つの中国人のエピソードで挟む。Webではそうはいかない。話のキモとなるエピソードはホットエントリーとして取り上げられるが、他のエピソードは忘れ去られる。

優れた小説は、語らなければならない出来事と語る必要のない出来事とが、同じように日常的でありきたりで不毛であることを知っている。それらをある順序で語ることで初めて、立体的に何かが見えてくる。総表現社会で表現されないもの、優れた小説が表現するものは、その立体的な何かだ。

小説を書くことは苦痛だという。書きたくないことから始め、書けなくなってもさらに書き進める時、初めてその先にあるものが見えてくる。書きたくなったところから始め、書けなくなるまで書くブログ作法の反対である。村上春樹は言う。「象について何かが書けたとしても、象使いについては何も書けないかもしれない。そういうことだ」。迂回し、迂回し、迂回し続け、それでも本当のところにたどり着けないのが小説である。○○することの10の理由というように、ショートカットし続けるブログ作法の反対である。

村上春樹は、良い文章について(架空の作家ハートフィールドの言葉として)書いている。「文章を書くという作業は、とりもなおさず自分と自分をとりまく事物との距離を確認することである。必要なものは感性ではなく、ものさしだ」。出来事を同じウェイトで配置して初めて、その先にあるものが測れる。小説は何を測るのか。「風の歌を聴け」の最後にニーチェの言葉が引用されている。「昼の光に、夜の闇の深さがわかるものか」。

Webは、個人がものさしを作るのを許さない。不毛な事物のリストは、よってたかって誰かの役に立つリストに移され、それにも選ばれなかったものは抹殺される。Webは、個人が周囲の事物との距離を勝手に確認するのを許さない。実際、我々はそのように振舞っている。Participation Ageでは、不毛な出来事を不毛なリストのまま提示することは許されない。自分のものさしを用いて大切なものを立体的に表現することが許されない。

Webはまるで昼のようだ。アテンションが乱反射する世界では、大切なものは誰の目にもとまるように輝いている。昼だけしかない世界に生きていて、夜の闇の深さを測るのはとても難しい。