構造の終わり、図書館の終わり

文章はソースかバイナリーかの続き。
自サーバを立て、Wikiに何を置こうかを考えたとき、頭に貯めている論考たちに思い当たった。どれも、ブログに記述するには長すぎてとても読んで貰えないものばかりだ。なによりそれらは、構造化された章立てで読まれなければならないものだった。
論文の書き方を習うと、大体最初にIMRADというのが出てくる。Introduction, Methodology, Results, And Discussionの略だ。ブログでそんなものは要らない。早く答えを差し出せ、ネタを再構築しろ、ハリー、ハリー、てな具合だ。ちょっと前に話題になった、わかるところから書き始めわからなくなるまで書く、とかまさにそれだ。後に誰が利用するかなんて考えてない。Google様に分類を任せているのではない。今のブログスフィアの文脈がないとちゃんと理解できない。スパゲッティ・コーディングと何も違わない。ここにある文章モナー

構造化されることで理解されるものがある。図書館の書肆分類もその一つだと思う。ドレイファスのAI批判の一つに、AIにテキストの体系化なんてできない、てのがあった。それが正しいかわからないけど、少なくとも分類学的な考え方が今のネットのアクティビティに馴染まないのは間違いない。はてなのホットエントリーで、図書館のような公的な役割を今担っているのはマンガ喫茶だ、というのがあったけど、求められている公的な意味が全然違う。図書館は分類というポリシーの上に成り立っているわけで、ただみんなが読む本を置いているのではない。

どちらが偉いという問題でない。ただ、構造化された美しさというものは次々と滅んでいるということだ。情報技術は加速している。今やエンタープライズへのWeb2.0の導入という話をあちこちで聞く。人々の情報代謝も速くなる。
ギブスンの「ニューロマンサー」に描かれたゴミに埋もれた情報も、涼元悠一の「青猫の街」に描かれた何処かのサーバに格納された情報も、情報技術がいずれ探し出し、再利用できるようにするだろう。しかしサイバーパンクSFもマトリックスも真に喪われているものを描いてはいない。構造(Organization)とは仮想世界での身体性である。それは文脈のより上位にあたり、形而上的情報より具体的なものである。
とあるハッカーが言った。「情報は疎外された体験である」と。その通りだ。そして疎外された身体=構造は、顧みられることなく消えていく。もしかしたら、アテンションに押し出される形で"発酵食品"として表に出てくるかもしれない。しかしおそらく、サーバに保管されたテキストは、HDDがクラッシュしたその時に消滅する。そして構造という記憶は永遠に失われる。RIP。