コンテンツにおける倫理と速度

「ユーチューブは本当にWeb 2.0か」--「Web 2.0の倫理」をめぐって盛り上がる議論(その1) - CNET Japan

「ハックとリミックスを可能にするのデザイン」と、共有サイトが本物か否かは別である。偽の共有サイトであろうとハックとリミックスは技術的に可能である。「少なくとも作者がそう望んだ場合にアクセスを許すことは〜」から「ハックとリミックスを〜」の流れには論理的ギャップがある。

YouTubeは、偽の共有サイトでありながら(あるいは偽だからこそ)本物の共有サイト以上にユーザの欲求に応えている、といえる。コンテンツを保有することで何時でも見られるという、個に閉じた時間方向のアクセシビリティは以前ほど重要ではない。ネットで誰かが話題にしたコンテンツをすぐに見られるという、ネットに遍在するインテンションと結び付けられたアクセシビリティにユーザの興味が移っている。

リミックスなど二次的な表現においても、それがオンラインに行えるようになれば、偽の共有サイトの方がネットに遍在する広範囲のインテンションを捉える高いアクセシビリティを実現できるだろう。異なる種類のアクセスコントロールを扱えるプラットホームに比べ、Creative Commonsに対応した本物の共有サイトでは創り手とユーザの双方のアクセシビリティ(利便性、カバーできる範囲)が制限される。

共有サイトが「本物」かどうかという「倫理」はどうでもいい。倫理より速度がここでもキモになる。視聴に関するアクセシビリティ技術の進歩と、編集・リミックス・管理など表現に関わるアクセシビリティ技術の進歩との相対速度。

アクセシビリティを倫理の問題として議論するレッシグらには賛同しない。およそ、倫理というものは、数的優位にある人たちが自分の社会にとって総体的利益につながるリソースの確保を強制する論理のことだ。それがときに暴力的になることは、さんざん繰り返されてきたことだ。だから倫理という言葉を振りかざすとき、何を保留しているか明確にするべきだと思う。そうでない議論は十全性を満たしてないと考える。コンテンツの創り手には、ユーザが自由に視聴する権利とマッシュアップする権利は認めるけど、誰がそれをしたか管理したい人もいる。視聴だけを許可したい人もいる。ユーザは創り手の宗旨ごとにプラットホームを切り替えたりしない。上にあげた議論の跳躍、あるいは「本物」という言葉の使い方から見るに、レッシグらの方法論は、Creative Commonsが、非Creative Commonsなコンテンツの創り手やその種類のコンテンツも含めて楽しみたいというユーザを切り捨てる暴力性を含んでいることを裏付けている。Creative Commonsは「既存の制度と「共有」による創造性確保の両者の共存の道を探るために編み出された(from RIETI - no.13: Creative Commons-ユーザが積極的に「共有」するためのライセンス)」と言うけれど、この議論におけるレッシグらの姿勢を見るにCreative Commonsのうたい文句もフェイクなんじゃないのと思ってしまう。