コンテンツのパラダイムシフト

グーテンベルグの活版印刷発明以降、聖書の読み方が変わった。それまで朗読だったのが黙読になった。多くの思想家が、大衆の成立と近代的自我の確立はこの事件に因っていることを指摘している。コンテンツ消費で重要なのは、少なくとも近代の始まりにおいてコンテンツは芸術であり、唯一なもの・神と同等なものだったということである。しかし、技術がコンテンツの意義を変えることになる。ベンヤミンは複製技術により芸術品の唯一性が失われることを予言し、その通りになった。20世紀末までコンテンツは複製されひたすらに消費された。
松岡正剛の千夜千冊『消費社会の神話と構造』ジャン・ボードリヤールより、引用。

「今日では純粋に消費されるもの、つまり一定の目的のためだけに購入され、利用されるものはひとつもない。あなたのまわりにあるモノは何かの役に立つというよりも、まずあなたに奉仕するために生まれたのだ」。

(中略)

彼は、これからの消費社会は言語活動(ランガージュ)の価値を変えるところまで進まないかぎり、きっと何もおこらないだろうと言っているからである。

(中略)

それはひとつには、このように社会の価値の創発契機をシステムの中にことごとく落としてしまっているのは、言語学・経済学・精神科学などの人間科学そのものの体たらくでもあって、まずはその「知を装う欲望消費」をこそ食い止める必要があるということである。

大塚英志「物語消費論」や東浩紀動物化するポストモダン」は、社会の中でのコンテンツの変容を述べている。しかし、彼らが本を著した時点では、視聴者はまだコンテンツを消費するだけだった。コミュニティにおいてコンテンツの部品を再利用するが、コンテンツ消費とは時間を置いた別のプロセスとして行われていた。
今や、コンテンツアクセスはコンテンツの消費を意味しない。視聴の動機付けと表現の動機付けは一体化しており、時にはネタの表現のために視聴する。
テレビの番組編成とCMによる広告モデルもまた、伝統的な受動的なコンテンツ消費に基づいている。放送事業者と視聴者の乖離は、コンテンツの意義のずれに起因している。