何処に投げかける訳でもない愚痴のような

コンピュータサイエンスの新しいデザイン - END_OF_SCAN - behind the counterへのレスのような。


2.0的に興味を切り出すと,個人的にはリンクの節とその前の節が常日頃考えるところ
ようやくこの辺が得心できてきました。デザイン/インターフェースが人と機械の言語の違いを読み替えるというところ。


何より困るのが,「人工知能」という抽象的な概念を切り出して研究すること自体が無意味になってしまい,
現実世界の開環境に放り込んで実験するしかないこと.
このへんも。
実環境で動かすためには使って貰うことが何よりも重要になる。知識を記述することとインターフェースが不可分になっている。フレーム問題への突破口は、今のところこれしか思いつきません。


メディアの人々はとっくに慣れていたんだと思うんですが.
続きのエントリーで書く予定なのですが、これまでは視聴者はただ受け身でコンテンツを消費するだけだったんですよ。しかしその形が変わってきている。配信=放送局、コンテンツ=プロの作った芸術的映像、という固定観念が崩れています。というわけで、上の世代は全くついていけてないです。いやね、もう。議論してもつまらんのですよ。マジ、何も生まない。説明責任だけ負わされる一方。テラヤバス。


ただ,最近は現実世界が沢山あるので,やはり2.0的な解は幾つも提案されていて,捨てたものでもないかとも思っています.
あちこちにエヴァンジェリストがいますしね。メディアはやはり既得権益が強いので難しいです。


こうしてみると,VRやらゲームやら,1990年代から活発に行われていた「研究だかなんだかよく分からないけど,とりあえず面白い」
分野というのは,最終的にこうした世界観に結びついていくのかなぁと.
これにはちょっと異論を。私も門外漢なんで間違っているかもですが。
VRはもともと仮想世界に現実をそっくり再現するというアプローチだったけど、現実の情報量が多すぎて結局うまくいっていない。少なくとも、東大の廣瀬先生はそう言ってました。それでARに転向している。ゲームも似たような感じです。身近な例だと、現実を再現しようとするPS3ソニーはあの体たらくで、リアルでの結びつきを補強するNintendo DSは広く受け容れられている。
VRでもゲームでも、機械で全て処理しようとしていたのが行き詰まってリアルを積極的に使う方向にシフトしている、という点でAIと同じパラダイムシフトが起きていると思うのです。


芸術はコンテンツだし,デザインや情報科学は基礎だし,経済関係も怪しい通貨が色々提案されているし,
基礎ですね。社会学も押さえとかなくちゃだし、認知も必須だし。建築も知っておきたい。もうICCそのままだw それなんてスノッブwww というかそもそもRSSもタグも知らない人が身の回りに沢山いるんですよ。もうね(検閲削除)


あとは政治のシステム化だけですね.
たとえば、中世だと、決闘とかしまくってたり、みんな朗読してたようなのが、私財を維持するために法が整備されて、主体ってやつができて、近代的自我ができた。物理的制約がないネット(電気代と通信費はあるが)で、何が起きるとシステムが整備されるのかまだ見えてないです。


それとBMI
Brain-Machine Interfaceですね。メディアもWearable Computingになったときまた大きな転換が起きるだろうと思います。
関係ないけど、ググってて見つけた、日本VR学会の論文募集「VRにおける画像処理技術」、「BMI/BCI 時代の心理学とVR」



その他では,「メディアの自業自得」論が面白い.それは別に犯人探しということではなくて,人間の業なのだとは思いますし,
脱中心化は個人の力というのも同意.
例えば最近話題のはてブ衆愚化の話。
これとかこれとか見ると、もうタグがメタ&ベタ化しているのがわかる。Folksonomyという言葉に込められた、人が理性的に情報を付加することでtaxonomyを作るという夢は崩れ去りつつあるように思います。


しかし,こうした新しい世界に100%自分が順応できるかというと甚だ疑問.でも,順応できない人が100%不幸かというと,
そんなこともないのですが,世の中というものの「意味」を考えると辛いですなー.
これがポスト団塊の不幸だなーと思っています。上の世代にも下の世代にも完全にコミットできない。常にアンビバレンツな問いを突きつけられている。


これほど残酷な「公共性」の定義も無い.
その時、倫理がどういう形をしているのか、その倫理は何を守っているのか――。考えると鬱です。