映像は誰のものか

時間のhackが映像の本質の一つであるなら、編集こそ映像のキモなのでしょう。Web2.0時代の編集の価値についてはいろんな人が主張しているし、Jumpcutなどツールも出てきているけど、整備・理解しなければいけないことは色々ある。
映像クリエイターが自分の作品に誇りを持ち、権利を侵害するものと戦うのは正しいと思う。作品を切り刻まれて他のコンテクストで消費されるのは意図を踏みにじる行為になりうる。しかし、もし映像創作の多くの要素が時間と視点のhackにあるのなら、創作の崇高さにおいて、現象を切り出すクリエーターと既にある映像から切り出すクリエーターに何の違いがあるだろう。少なくとも、(家庭のハイビジョンテレビではただのうざいノイズにすぎない)フィルムグレインにこだわったり、風景の長回しごときで創作性を主張されたりするのにはうんざりする。
編集も、単に映像を切ったりフィルタかけたりするだけじゃないでしょうね。アノテーションも相互参照され、再利用されるものであって欲しい。そのためのインターフェースがどうあるべきか、考えなきゃいけないことは色々あるけど、もう少し掘り下げてみたい。