反射光、失われるまなざし

RSSリーダを立ち上げ、ン百件もある記事に目を通していると、うんざりしてくる。一方的に餌を食わされ(feed)、食傷気味になる。この記事はどこからやってくるんだろうと考える。ほとんどは二次ソース、三次ソースで、attensionを集める記事は何度も目に触れることになる。Webは僕の周りに張り巡らされた鏡のようで、情報という光がその中で何度も反射しているように感じる。溢れかえる光の中で、僕は目が眩む。
マクルーハンに、「反射光」と「透過光」という概念がある。情景をそのまま映し出す鏡を覗いても何の興趣もわかないけど、教会のステンドグラスに射し込む光には信仰心にも似た感情が立ち上がってくる。反射光はただ受容するだけだけど、透過光にはその背後にあるものを感じようとまなざしを向けることになる。
Webではまなざしが失われる、といつも感じる。透過光と反射光の違いは、まなざしを持っているか否かだと思う。酔狂さんがプロフィールの文にこう書いていた。「汝が久しくwebを見入るとき、webもまた汝を見入るのである」。RSSリーダやら何やらでWebの情報を消費するとき、Webがこちらを見ているまなざしに組み込まれているように感じる。"Participation Age"では、Webに流れる情報に参与する形で=Webのまなざしに沿ってものを見るしかない。
村上春樹は、『風の歌を聴け』でハートフィールドという作家にこう語らせた。「文章をかくという作業は、とりもなおさず自分と自分をとりまく事物との距離を確認することである。必要なものは感性ではなく、ものさしだ」。確かに。まなざしは距離を知ろうとする行為であり、そこに必要なのはものさしだ。
ならば、まなざしを回復する手がかりとして、自分に言い聞かせよう。ニーチェの言葉でもある、ハートフィールドの墓碑だ。

――昼の光に、夜の闇の深さがわかるものか