「論座」5月号

東浩紀タンが「ウェブ進化論」に2つの疑義、という話。

不特定多数無限大への信頼がどこまで広く適用可能か

東タンは、「参加者の相互調整が働かないコンテンツ制作の過程は新しいネットの到来後も本質的に変わらないだろう」と結論づけている。視聴者による消費を目的とした前世紀的なコンテンツの制作をオープンソース的に行うのは確かに難しいだろう。しかし、二次創作的なコンテンツの制作はその限りではない。のまネコ問題あるいは動ポモのデータベースの話において、コンテンツの役目は消費対象から交流を円滑にするための言語へと移っていると考える。一次著作物のヴァリアントが互いに表現形式と内容を交流しながら発展していく同人的な仕組みはより洗練されていくだろう。キーワードは橋本大也氏が言っている、メタ、ネタ、ベタ、オタ。二次創作出身としては、一次著作物あるいはマスを対象とした流通と、二次創作あるいはニッチなネット上の流通が相補的な構造を維持する世界がいい。

アメリカの状況のみを捉えていること

この疑義そのものには賛成。ただし、「グーグルの情報発電所の夢は、あまりにも普遍志向であるがゆえに、逆にとてもアメリカ・ローカルな限界を抱えているかもしれない」というのは嘘くさい。日本のブログスフィアはアメリカのような新自由主義の形をとったこともないし、これからもとらないだろう。日本のブログは、これまでのように既存メディアのツッコミ役でいいと思う。アメリカのような徹底した個人主義自由主義が日本には根付いてない。日本においてネット上の言論は、事大主義的になりがち、議論のための議論に陥りがち、発言者の地位や背景と独立して発言内容を評価しない、というよくない特徴があると思う。一方で、ムラ社会的な緩やかな同胞感、パソ通から2ちゃんねるを経て成熟した豊かなネット言語、リアルとは乖離したバーチャルなペルソナを軽視しない社会の枠組み、ケータイ社会の特殊性は、日本が独特なネット社会を作り得ると考える根拠になるだろう。

その他

  • 国家の品格 (新潮新書)」の筆者である藤原正彦氏へのインタビューアー(論座の編集長らしいぞ)の釣り師っぷりがすさまじい
  • 保守言論のあやうさを論じる特集は実に朝日的
  • テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ」への中条省平氏の書評は、これまでの批評体系が"動物的"な作品に通用しないことを顕わにしている。中条省平氏ほどの読み手を持ってして、小さな物語を記号化されたキャラが接続する今のマンガに対し、「キャラや萌えがマンガの未来を開く契機となるということが、どうしても実感として把握できなかった」と言わざるを得ないのは、コンテンツの価値や意義が以前と大きく違うことの証左だと思う。