デス博士の島その他の物語

表題作のみの感想。いい読後感です。本を読み終わったに感じる寂しさみたいなものを素晴らしく思い起こさせてくれる。ジーン・ウルフの技巧も実に細やか。内容紹介より、

「だけど、また本を最初から読みはじめれば、みんな帰ってくるんだよ…きみだってそうなんだ」孤独な少年の元に物語の登場人物が訪れる

とあるけど、なんだそれだけの話かとだまされてはいけない。ウルフは、それでは何処へもいけないこと、現実に追いつくことができないことを作中に忍ばせている。本を読むという行為もそうだ。でも、その不可能性とか袋小路っぷりこそが本を読む愉しみなんだろう。

司書つかささんが「「読む」という行為の、意識の拡張が見える作品」と評価しているけど、私もその通りだと思う。そしてウルフは一貫してそういう作品を書いているように思う。

ケルベロス第五の首 (未来の文学)」や「アメリカの七夜」は実に新本格っぽいミステリだった。ただ、「デス博士の島その他の物語」の射程に沿ってこれらの作品を改めて見ると、一般的な倒叙トリックものとは違うように感じる。どちらの作品でも、順序や信憑性が失われることでテクストが無時間的になっている。同時に、そのテキストが、過去にあった謎の真相を著したものであることが強調されている。テキストは確かに過去のものなのに、それを追うことで時間が狂う。過去と無時間性が連結するという不思議な歪み。

キッヒラーは、「グラモフォン・フィルム・タイプライター」で、文字というメディアによって、歴史は文字に起こせる情報のみが記録されアーカイブに収集される、という形をとることを指摘していた。音声や映像と比べたとき、時間性を失うことが文字というシンボルの特質だ。

でも、その無時間的な何かは、確かに誰かが記した過去のものなのだ。過去の時間を再現するほかのメディアではこうはいかない。文字というメディア自体が時間の捩れ(超越ではない)という概念を孕んでいる。トークショウのタイトルをもじれば、「小説に何ができるか」への答えのひとつがここにあると思う。

若島正先生による、SFマガジンに掲載された「デス博士の島その他の物語」ノートは考える参考になりました。「デス博士」既読の人はこちらも目を通しましょう。

メタ小説というのがあるが、ウルフの作品はどれもメタ読書を強いる。本を読む自分と本に書かれたこととの齟齬と照らしあわして初めて面白くなる。「ケルベロス」なんてまさにそう。まーしかし、そんな読みは面倒くさいのも事実ではある。