「ゼロ年代の批評の地平 ―リベラリズムとポピュリズム/ネオリベラリズム」

紀伊国屋ホールで開かれたトークショウ。東浩紀北田暁大斎藤環切込隊長こと山本一郎

メタな理論とベタな現実の往復運動=批評を実践せよ。

全然、往復運動してなかったし、実践もしてなかった。

開始30分で、「保守とリベラルというのは立場取りでしかない。現実は変わらないし、言語は意味がない。現実解はポピュリズムしかない」という結論で行き詰まる。やがて切込隊長と斉藤氏が、東氏は何がしたいのかと問い詰め始める展開に。なんじゃそりゃ。

東氏は自分の目的としてこんな風に言いました。「人間とか主体的決定とか大きな物語がなくても、テクノロジーを工夫すればやっていけるのではないか」。なんちゅーか、隠れオタ(あるいはスノッブ)も安心して生きられる世界を作りたい、って言っているようだなと思た。

丁度会場に来るまで、北田氏の「嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)」を読んでたのですよ。なんで、後半の互いに相手を「総括」する展開に、連合赤軍の話を思いだしてしまいました。こんなこと書くと怒られそうだけど、思想の精緻化のために「それでなに?」と自己言及を繰り返し袋小路に陥っている様がなんかね。ならば、「転向」して時代の空気を代弁しロビー活動にいそしむ宮台氏は、70年代のコピーライターみたいなものなのか。次のメディアの萌芽を感じ取り上の世代にかみつきながらそれ以上のことはしていない東氏は津村喬氏みたいなものなのか。いずれにせよ、歴史に学ぶと、どうしようもないアイロニカルな世界しか思い浮かばない。

とりあえず、東氏と北田氏で来年雑誌を創刊すると言っていたので、そこでエンジニア的な視点もとりあげて欲しいですな。

以下はメモ。
適当にとったものであり信憑性は保証しません。下記メモから他への引用はダメ。あと敬称略です。


新しいネットインフラでのポピュリズムについて各講師が一言ずつ。

北田:
社会学と批評との関係
大学のとき、社会学と批評とは相容れないものだと考えられていた

東が波状言論S改を編んだきっかけは、その乖離を埋めることだと考える。本当に社会学の時代が来ているかというとわからない。ただ、かつての批評とは違う言語が求められていて、それに社会学が合っている。
「嗤う―」でとりあげたように、95年以降は、言説分析、テキスト分析がきわめて困難
→批評的な世界観がなりたちえない時代になっている
→作品からコミュニケーションに批評対象が移るとき、対象の個別性に深く立ち入らない社会学が必要となっている。

ナショナリズム=あくまでコミュニケーション
思想ではない。継続していくためのネタにすぎない。
軽々しいナショナリズムを恐ろしいと考えるかだからいいと考えるか。
見逃せない粘着力というものがあり、それを捉える必要がある。

東:
アメリカで嫌韓について周囲に尋ねられた
ネタ的コミュニケーションは日本にドメスティック。

山本:
情報量が多い、報道が多い
⇒ネット上で報道される事件を咀嚼するのにコミュニケーションを使っている

ネット社会でのとらえかたが現実社会と乖離がある。ネットでは話題の消費が速い。ネットでは1週間で終わってしまう。実社会では少しずつそれを検証しているワイドショー型とネットでの消費は近い。
・どういうように実社会と向き合うか、という点には深く立ち入らない。
・ごくわずかの韓国嫌いな人が声を上げると、それがネットの総論のように見えてしまう。結果、ネットは右派的だと思われている。しかしそれは必ずしも正しくない。住人はもっと醒めた目で見ているのではないか。主体的な声が重くとらえられがち。

東:
日本社会で今言ったことがわかるのは下の世代のみ。
ネット上の価値を、受容社のリテラシーまで含めて理解する人が上にはいない。文字通りにとられる。ビジネス面的にも社会的にも理論化されたとして、ネットがわかる人たちはやはり限られている。そういう人がキャスティングボードを握っていることもある。

斎藤:
なぜラカンに固執するか。人文的なアプローチにコミットして話をする人たちがいる。その一つとしてラカンがある。精神分析社会学を架橋するものである。

ラカンの言説はネットのありかたを予言していた。セクシャリティ、欲望、変化の不可能性(精神の治癒は困難)。

作品による言説分析は今も有効だと考える。いくつか象徴的な作品がある。野生時代の賞に候補として残っている作品。いじめよりいじりの方が100倍恐ろしい。いじめは関係性の変化でかわる。いじりは一旦ロックオンされると変わらない。

最近のセカイ系もそうだけど成長がない。特徴としてコミュニカティブ。お互いの内面性を底の底まで理解している、それゆえに変化しない。変化に対して抵抗が生じてくる。ニートやひきこもりがますます増えている現象と重なっている。自分はもう変わらないのではないか、という絶望的な考えが、結果として保守主義的なものを選択してしまっている。


東:
コミュニケーションが過多になる今、問題が二つある
・図式そのものがわからない人に対する説明責任
・思想が限界に達している

S改は、宮台論になっている。東、北田は、宮台の「あえて」には乗れない。宮台的には、上澄みばっかり精緻にやってどうするのよ、ということになるのだろうが。

北田:
自分と東が考えているのは、過剰なコミュニケーションを志向するがゆえに変わらない人がいる。宮台のとるアプローチ(天皇亜細亜主義への回帰)によって変わるのか、いや変わらないだろう。現実を記述することで現状を相対化するしかない。


山本:
コミュニケーションは本当に過多か?
広告代理店による調査では、20−24のコミュニケーションに割く時間は変わらない。形態が変わっただけ。

本音をつぶやいている状態を維持しようとしてコミュニケーションが作られている。期待感のなさという本音のつぶやきに対して保守的な態度をとる

東:
現在の保守の強さは人々が世の中あきらめているから。理想やビジョンの空いた孔を埋めるものがコミュニケーション

山本:
どういう態度をとるかというは相対的。保守主義というのを考え詰めているではなく反射的に対応している。それが目についているだけ。なんにでも批判的な態度をとりうる。韓流を指示した主婦層に対して否定するというのが行動的な動機としてある。

斎藤;
若い人のケースを見ると保守と左翼は混沌としてきている。過激な主張ができればどちらでも変わらない。自分を支えられるものをどこかから持ってくる。基盤がない。流動性が広がっている。

東:
二人が言ったのを総括すると、現代ではリベラルや保守は立ち位置でしかないということか。現実とは無関係に立ち位置が決まる。

山本:
保守ではなく保守的態度。そこに対する議論がない。

東:
現実の社会がどうやるかを考えるとき「保守的」な態度をとるしかないのでは。

山本:
直面する事実から遠いものばかり。差し迫った問題がない。ひきこもりニートに特徴的な属性。自分に近い問題にはがんがんいう。自分の利益のため。思想的背景に支えられるものではない。

ニートフリーターが騒いでいるのは、経済概念的に言うと奴隷が騒いでいる状態。外から流入することに対して、自分たちの地位が下がることを感覚的に理解している。

社会的に総じて批判的な言説をするのにネットが向いている。失うものがない人がネットで騒いでいる。安保で活動していた人たちの受け皿になっている


北田:
ネットの役目の一つにどうでもいい話題をてことして実存を解決する、というのは確かにある。たとえば嫌韓。韓流と対立するような人々の反発。マスコミとかへの反発。とりあえずアンチ。実存的な反発とポリティクスな反対とが直結している。

東:
分析はできる。次のアクションがうてない。何をやってもしょうがない。

山本:
効果的なソリューションがポピュリズムポピュリズムは他のポピュリズムと相性が悪い。

東:
この段階での結論として、「保守とリベラルというのは立場取りでしかない。現実は変わらない。言語は意味がない。現実解はポピュリズムしかない」
本当?

30分で行き詰った?

斎藤:
知識人の戦略化、動物化、が並行して動いている。導く側が戦略的になるほど導かれる人が動物化する、という構図がある。

コンスタティブとパフォーマティブ、二つとも力を失っているように思う。その中間である、シンプトマティックが強い。

小泉は分裂気質で、コミュニケーション能力に欠けている。しかしシンプトマティックな言説が人を誘惑する。コンスタティブとパフォーマティブのどちらかに戻したい

山本:
小泉に対抗するカウンターがない。民主党は、ルールを理解せずに埋没していった。理解力、咀嚼力を実行に移す人が減っている。結局ポピュリズム

東:
宮台は、イデアリズム=左翼、リアリズム=右翼、だとするとリアリズムな自分は右翼だ、といっている。しかし今は観念の人になっている。現実認識の出口のなさを観念的にならざるを得ないというのも一つの出口なのか?しかし北一輝はどうかと思う

北田:
大澤は、天然的に、兆候的なポピュリズムに対してイデアリズムに。

山本:
ポピュリズムは扇動の手法。その方法論は広告手法で確立している。それを政治やビジネスなどに流用。

既存のポピュリズムに対応する材料がない。コアな人が主張し、それに人が乗っかる、その連関動作。ポピュリズム同士のカウンターで始めて議論が始まる。

斎藤:
アニメ的なリアルとかを考える。小泉のリアルは、フィクション的なリアル。リアルとかリアリティに対して無条件的に肯定する言説がたくさんある。そういうのと小泉的なポピュリズムとは通低している。

山本:
対応する方法がない。制限付き支持が勝っちゃう

東:
保守に対してリベラルはほとんど機能していない。漠然とした保守的気分を誰が受け皿になるかだけが問題。

コンテクストの変化の中で自分の立ち位置は不動であることはない。リベラリズムを構造として扱うのには限界?

山本:
社会はどっちに向かうべきかというのがいえないのに。なぜそれを問題意識として持ったのか

東:
動物化する社会に対してポジティブな態度をとりたい。遥か将来について考えることは考えないような職業倫理。そういうのが限界となっている。

オルタナティブな大きな理念を出すことにとまどい。脱構築することが倫理。現実に介入しようとしても、これがベターといえない。言わないことが正義。

言説分析に対して配置を綺麗に描くことが倫理。それにどちらかにコミットすることが暴力だと教え込まれてきた。

動物であるときと人間であるときが分化する状態がある。

理想を描けない、ソリューションを描けないのが自分の問題。
人文的な知のトータルな問題。

山本:
まず自分が立つ位置を明らかにしないと。
動機はなにか?

斎藤:
ニートが目の前にいたらどうする?

東:
それはやっぱり人による。自分はそれができない。

斎藤:
ニートは治療によって何とかしないと、というのが最初はあった。ドロップアウトする若者としての問題は昔からあった。ニートひきこもりの自由もある。きつくなったケースにはケアをする、というダブルスタンダードになるしかない

例えば、良心的ロボトミーがあったとしてそれをするのか。

東:
する、それは個人の問題

北田:
肯定しきれないけど、否定しきれない。否定するには、結局形而上学的な論理を持ち出すしかないのではないか

東:
バイオロジーで人を変えるというと倫理問題があるっぽいけど、社会的なシステムによって幸せになっている現在をみれば変わらないのではないか。

斎藤:
じゃあマトリクスは?

東:
構わない。

動物的である社会がある。広告も小泉も誘導とか家畜化とか実際にそうなっている

北田:
動物化はコミュニケーションの形式。自分を人間だと思いたい人がでてくる。そういうのの担保がナショナリズム。あくまで動物的なロジックで動いているだけ。

東:
理想すらネタになってしまうなかで、理想を回復できるかが問題。

山本:
理想とはクリエイティブな結果。つきつめて考えて初めて生まれるもの。アカデミズムに求められているのは理想の形態を呈示することではないか。それがない中で理想を作っても。アメリカやローマはそういうものを作り上げている。

東:
保守を新しくつくる必要があるのでは。

山本:
保守主義とは、同質感同胞感を守るということ。伝統を守る必要がない。過去を再発見するというのはある。

東:
移民を受け容れるということも保守だってできる。保守だって強い意志というのが必要。

北田:
大澤や宮台も理想を出そうとしている。現実とにはずれているが。

斎藤:
話を聞いていて、閉塞感、どうにもならない感を感じる。

言説の外で話しがまわっている感じが。たとえばクオリアを追求するてのもある。妙に保守主義と結びついてしまったりするかもしれないが。

楽観性への危機について語る言説の場は必要

批評の場の言説は外に届きにくい。ナンシー関はヤンキー、ファンシーへの関心。それが日本の根底にある。批評はそういう場に対して無力。

欲望がこれからどうなるのか。ラカン的には欲望に譲歩してはならないと言いたい。今後は煮詰まっている。

東:
狭いところにしか届かないという話について。出版メディアに対する権威の崩壊がある。本に載ることが多くの人に読まれることにならない

「けっきょく何のためにやっているのだ」とみんなに言われる。誰かのために、誰かの代理としてでないとやってられないはずなのに。北田と雑誌を創刊しようと思っているが、その目的を考えている。


客席にいた宮台のコメント:
個人の自由が何なのか考えるのはフランクフルト学派とかみんななっていること。生活空間の中で依拠するものとして、あげるものがちがうけど。過去のそれらに代わる依拠するものを提示できるかと思っていたけどできていなかった残念。あえていえば、哲学者としての人間的行動と消費者としての動物的行動とを使い分けるというのが少しは意味があるかも

東の反論:
大きな物語はフェイクであっても必要でしょう、という宮台の意見について:
そういうカードを持たなくてもやっていけるなら、その方がいいだろう、と考えている。既存の枠組みとは違う解もあるのではないか。しかし大きく組み替えることがあるので躊躇する。

「生活世界の空洞化を埋めるために何か必要か、それを呈示できていない」という意見だが、現代はその図式事態が成り立たなくなっているのではないか。

自分の目的ははっきりしている。人間とか主体的決定とかはテクノロジーを工夫すれば実はいらないかもしれない。国会が法律を作る、といって民主主義の原理原則に戻ったときにオルタナティブな政治制度も作れるのかもしれない。しかしそれは、人権そのものを組み替えることを意味している。そういうことを考えないと、結局昔とかわらない。