グロテスクなブログ

橋本大也氏のPassion For The Future: グロテスクな教養に書かれていることは、特別なことじゃない。あらゆる知的活動において、サロン化や売名行為を見ることができる。例えば、

教養主義は、学歴エリートたちの人気投票的側面があったとして、

こうなると人気の先生に自分の著作を引用してもらい、友愛集団の仲間入りすることが、教養の商品化への第一歩としてとらえられるようになった、と著者は言う。

はこんな風にテンプレ化できる。

Web2.0は、ブロガーたちの人気投票的側面があったとして、
:
こうなると人気ブロガーに自分のエントリーにトラックバックしてもらい、友愛集団の仲間入りすることが、ブログの商品化への第一歩としてとらえられるようになった、と著者は言う。



それはともかく、それに続く次の内容、

だが、本当の教養の価値というのは、スノッブ集団のプロトコルではなくて、

  • 古典を知っているから深く味わえる作品があること
  • 古今東西を知ることで全体像を理解すること
  • 自分と無関係の他者に対する想像力を強化できること
  • ”ビジョン”に幅広い支持者層を得られること
  • 面白いユーモアを言えるネタ元

といったことにあるのではないだろうかと、私は考える。

はとても重要だと信じている。それを実践しているか否かが分かれ目になる。
例えば、真モヒカン族と偽モヒカン族の違い。
モヒカン族は、言葉の定義の正しさ、議論の経緯、議論の公平性、を維持することに非常に気を使う。学生の頃ずっとNetNewsを読んでいたけど、アクティブな書き手たちが時に偏執的なほどにそれを守ろうとしていたのをよく憶えている。
id:otsuneさんに口論をふっかけていた人が、「私は自分の定義でモヒカン族を語っている、ここは私のブログなのだから私の定義で議論すべきだ」なんてことを書いていた。彼は真モヒカン族からかけ離れている。教養に裏づけされた正統性を持った発言をするためのプロセスを知らない。真モヒカン族は例外なくそれを自覚的に行っていた。

そんな、正しいことを正しく論じようとする意思みたいなものが、Web2.0で真っ先にチープ化してしまうのだろう。