11/21:追記

モヒカン族グループの掲示板に捕捉されたので、もうちょっと書いてしまう。
NetNews華やかなりし頃、さまざまな碩学の徒に接することが出来たものです。久留さん、もーたさんや太田さんやおーたさん、voidさん、あさたくさんetcetc。彼らの発言には教養に裏打ちされた含蓄と洞察があったものでした。
彼らを殊更に崇めたいとも思わない。昔はよかったと言うつもりもない。
でも、ブログの記事を読んでわくわくしたことはこれまで一度もないです。畏れとも崇拝ともつかない、なんじゃこりゃー感がない。ロールモデルにならない。アルファブロガーとかめっさつまらん。今でも碩学な人っているんだろうけど、いくつもの話題から新たな洞察を導き出すプロセスを見せてくれたり、横溢する衒学に酔える文章を読ませてくれるサイトは、昔からの識者ばっかりだ。

ネット上で、この人すげー、と思い、発言を追いかけ、勉強し、ロジックとか切り口が少しずつ理解できるようになり、自分なりの方法論が作り上げられる――そんなコミュニティベースの自己啓発てのがありました。ヴァレリーの芸術論にも確か、クリアすべきハードルを設定しそれを乗り越えることに精力を傾けるのが芸術の役目だ、ってな内容があった(うろ覚え)。ハードルのない世界では共感ベースで全てが進むのだろう。でも、そんな中で産み出される意思の発露は、きっとつまらないだろうな、と思ってしまう。