菊地成孔氏のメガネ男子本から写真撤退に関する話

テーマは3つ。
・愛という免罪符。ネットでの二次的な活動(たとえばまとめサイトや本を作ること、ネットで評判を広めること)が大層なことのように(実は大したことしてないのに)振る舞い、一方的に代価を求めてくる香具師がいる。情報をよこせ権利の侵害を容認せよと強要してくる。一方で実業に携わっている人はそんなの容認できない。この構図は、クレクレ君から放送番組の再配信にまでみられる。個人的には、馴れ合いマンセーな持たざるものには(適切な交換が行われない限り)何も与えてやる必要はないと思っている。チープ革命とか言ってるだけじゃなく、アテンション・エコノミーの負の面も考慮しないといけない。
・ニヒルの強要。エントリー内ではインターネット病と言っている。発言をネタとして相対化し、主張が無効であることを強要する。オマエモナーの自己言及呪文はその最たるもの。ネット上の権利についても同様のことがなされる(例:のまネコモナーを相対化する工作員の行動)。総あぼーんを仕掛けてくる相手にどう立ち向かうか。リアルに立ち戻るしかないのか、わからないけど。
バカの壁。ラベリングによって細かい差異を無視する暴力性。この対処は、同一性より差異性に注目するよう心がけることだ。マッチングだけならサルでも出来る。

総じて、ニヒルを再生産しないように生きたいものです。菊池氏のコメントから引用。

今後こうして「屈辱を受けたら堂々と超然と無視。自分ならそうするね」というウソ(内心では「心が不安定」になっている筈ですから)を自分につきながら抑圧された怨念を無限に醸成する人々の倫理観や社会観が実際の社会を覆うのだなあ。と思います。正面切って抗議すると、さっきまで調子コイてチョロチョロ引っ掻いていた奴が崩落して土下座(OTL)します。まるで自分(達)が旧世代のヤクザにでもなった気分ですが(苦笑)、もうそれで結構だ。と思ってます。まあ時代の流れですね。