20世紀が追い求めた「自由な人間」の限界 / 仲正昌樹

自由主義を標榜するアメリカは暴力や拘束を押し付けているよね、という話。

「20世紀の政治思想が取り組んだ課題を敢えて一言で要約すれば、アメリカ独立戦争フランス革命を通して「西欧近代」が発見した「自由な人間」という理念を、社会規模で実質的に現実化することであったといえよう」
→ 普遍主義・啓蒙主義が新たな拘束・暴力を産む(「啓蒙の弁証法」)
内部においても軋轢(ジェンダーエスニシティ、宗教etc.)
コミュニケーションが自由を侵害(プライバシー、インフォームドコンセント
21世紀における課題は、「自由な人間像」が「グローバル化と高度情報化に伴って次第に拡散していく傾向にあることを認めたうえで、各人による自己のアイデンティティ想像の"自由"の余地を――相互干渉を可能な限り抑えながら――保護していくための柔軟な枠組みを模索すること」

結論はまったく出ていない。が、上から続けて考えると、うさんくさい「柔軟な枠組み」ってやつが、ちょっとだけ希望を持って見ることができる。根拠もロジックも全くないんだけど、自由意思の実現を満たすフレームとメソッドを因子としてWebのようにつなぐシステムを作るってことでしょうか。少なくとも社会システムと思想は、それを必要としている(→丹生谷貴志氏のコラムの感想へ)。フレームが共通化できるのか、メソッドは一つなのか、変数はいくつなのか、そもそも共通化することに意味があるのかすら全然わからないので酷すぎるにも程があるのですが。そして、ノーブレス・オブリージュな考え方がいいのか、ムラ社会的アプローチがいいのか、ポトラッチみたいなのが必要なのか、きっとそれぞれがツールになり得るのでしょう。一応勉強本は買ってきました。社会ネットワークの本で「スモールワールド・ネットワーク」。