終わりの終わりに向けて / 丹生谷貴志

世紀末を超えたあとの虚無について。
内容は

20世紀は平均寿命が延び居住地区が格段に広がった「生の彌漫の世紀」だった。しかし、西欧において20世紀は「死の世紀」だった
: 西欧は世紀末にむけ「現実的かつ象徴的に、まさにその日(終末)にむけて自らを形成し生成してきた」(ヘーゲル精神現象学』)

21世紀:「終末」が誤謬であることが判明する。終末は相対化→身近な死は終末と連結。

「千年紀の壮大な(?)「全宇宙の死」に並行した20世紀の「死」は、マクロコスモスとミクロコスモスのメビウスの輪を滑りながら、大文字の「人間」の被膜を割って、数十億の具体的なここの死の傍らに落下し、アポカリプスは鳥瞰的な幻視から、寄る辺なさだけが約束なき約束でしかない「枕経(!)」の具体の呟きに縮小していく」
「実際、世界や宇宙が消滅するという事実がこれほど切迫しつつ、どうでもいいことになった「世紀」はなかった。(中略)誰もが死んでいく「未来」が問題なのではなく、いたるところに遍在する「終末論的調子」こそが注視すべきことなのだ、と」

21世紀についての言説は、そのままライトノベルを擁護するのに使える。大きな終末を個人の死に引き寄せそれを乗り越えようとする「セカイ系」のアプローチはとても同時代的といえる。

『自由は進化する』の文脈に照らせば、「生の彌漫」はまさに自由獲得の成果だし、溢れかえる「終末」のモチーフは、死のシミュレーションといえる。上記の極端な例に限らずあらゆる文化的活動は死のシミュレーションである。西欧は20世紀の終末に向け、システムと思想の両面で死のシミュレーションを行った。

21世紀に我々がどのような(デネットの定義でいう)「自由」を獲得したかというと、モノ(ボードリヤールの「オブジェクト」)はコンテクストによって意味を持たせられる、ということだろう。丹生谷氏が述べた遍在する死とは、サルトルの『嘔吐』だろう。つまりモノは我々と絶対的に異なる存在だということ。今や、マロニエの木のこぶを見て夢想しなくても、我々はその事を実感できる。21世紀において知(たとえばWeb2.0)が真に力を持つのは、我々とモノが自由にアクセスする場面においてだ。それはきっと、自由を獲得するためのリーズナブルな進化なのだろう。