自由は進化する / ダニエル・デネット

山形浩生の解説と、決定論と不可避性の違いの部分まで読んだ。以下の文のほとんどが解説の焼き直しで、ちょっと所見入り。
生物の進化過程における自由の意味について。ここでの自由はlibertyではなくfreedom。デネットは、障害を効率よく回避するための進化が自由意思を生み出したという。このレトリックは気持ち悪い。自由になるための能力を自由と呼ぶのは、目的と手段をごっちゃにしているようだ。しかし、障害のない状態を想像しそこに至るための行動をとろうとする生命だけが自由を獲得できる、と考えればまあ理解できないことはない。不平等を当然のものとして受け容れている生命に、自由な状態は意味をなさない(=存在しない)。自由の意味は当然個によって違うし、我々が自由を普遍で絶対的なものと思うのは西欧近代の啓蒙の刷り込みのせいだろう(→仲正昌樹のコラム感想へ)。

上述の自由の定義をもとに、デネットは自由意志を否定する各種議論を否定する。山形浩生の解説によれば、以下のものがあるらしい。

  • 物理的なもの(ラプラスの悪魔
  • 生物学的なもの(利己的遺伝子)
  • 擬似生物学的なもの(ミーム説)
  • 遺伝・環境要因的なもの(条件付け説)
  • 脳科学的なもの(ユーザイリュージョン説)

ラプラスの悪魔に関してのデネットの結論は次の通り。決定論的世界でも、危機を回避できない状態もあれば、初期設定とルールによって危機を回避できるものもある。一定の法則下でも戦略とデザインによって回避できる場合がある。それを選択できる限り決定論的世界でも自由意志は存在する、という。この考え方は一つの視点を示している。自由とは生命が認識する環境の状態で、それはどう環境を設定するかというフレームによって決まる、ということだ。山形浩生は、神様(デウス・エキス・マキナ)から見れば決定論と不可避性に違いはない、というが、フレームを設定することで神様の目から逃れられる。代表的な反応は、自由は本能のままに行動できることでしょ、というものだろう。それをする自由もある。短期的予測に基づく行動が長期的に大きなリスクを負ったとしても、それは自由とは別の問題である。

解説の最後は、ノーブレス・オブリージュ(貴族の義務)の話になる。私も、ノーブレス・オブリージュぐらいしか自由社会における最適問題を解く考え方を思いつかない。でもそれが、コミュニタリズムとどう違うのか、あるいは解説にあげているみんなで痛みを分かち合いましょうってなマゾヒズム全体主義とどう違うのか、よくわからない。山形浩生の話もそのへんはよくわからない。仲正昌樹は『不自由論』てな本を書いていたが、そのへんとの違いもわからない。

で、InterCommunication 53のレビューに続く。特集は「新教養零年」。教養主義だよ、と口だけ言っててもダメなので読んでみた。横断的な内容なので個別にセクションを切る(しかも逆順に並べる)。